ということで、SW7もこのへんにしておこう。
最後に述べたいのは、
マーチャンダイジング主導で、
ビジネスの販路を先につくり、
それ合わせで映画を作ることは正しいのか?
という議論をしてみよう。
この問題は難しいので、
東映戦隊シリーズを例に考えよう。
言うまでもなくジャリ番である。
しかし僕らはこれを夢中で見て育った。
僕はゴレンジャーリアルタイムだから、
馬鹿にはしてなくて、むしろやりたいぐらいだ。
この番組は、テーマは勧善懲悪の物語だが、
どちらかというと、オモチャを売るための番組でもある。
最初は勧善懲悪の戦隊ものの活躍ありきで、
子供たちの人気を集めてスポンサードする、
というビジネスモデルだっただろう。
オモチャメーカーや文房具メーカー(子供たちが買うもの)が、
人気番組のグッズをつくり、
皆がwin-winになるビジネスモデルだった筈だ。
ところが、オモチャメーカーから、
戦隊のストーリーありきではなく、
オモチャありきの話にならないか、と相談されはじめる。
オモチャメーカーにはオモチャメーカーの都合がある。
売りたい商品のラインナップがある。
そこで、それを出して、売れないかという、
マッチポンプが出来上がる。
戦隊側も、スポンサーが言うならしょうがないか、
と折れる部分ではある。
巨大ロボットの合体シーンをかっこよく撮ったり、
武器をかっこよく使うシーンを入れたりして、
人気番組のあれがオモチャに!となれば、
オモチャメーカーはホクホクだ。
しかし、ストーリーを作る側は、
オモチャメーカーのことなんてどうでもいい。
何故なら巨大ロボットも武器も、
ストーリーの小道具に過ぎず、
内的問題や外的問題、焦点やターニングポイント、
メインプロットやサブプロット、
テーマとサブテーマには、関係がないからである。
逆に、オモチャメーカーは、そこに口を出すほど、
ストーリーを構築する力がないから、
そこのシーンさえ輝いて見えればよく、
他はお任せします、ということになる。
ということで、戦隊シリーズは、
オモチャメーカーと蜜月関係を保ちながら、
現在まで生き延びてきた。
オモチャメーカーはオモチャが売りたい、
ストーリーテラーは、ストーリーが面白ければいい、
という互いの主張の中間点を見いだしたのだ。
もしこれが、オモチャメーカーが、
ストーリーにまで手を出し始めたらどうなるか。
オモチャAとBが戦って、などと簡単に言うだろう。
動機は?感情移入は?内的問題は?
と彼らに聞いても、おそらく何も考えていない。
素人に脚本のことは分からない。
なんせ、十年本気で修行しないと駄目だ。
だが、映像(アトラクション)のことがわかるやつが、
ストーリーの主導権を握った。
ディズニーだ。
ディズニーの理解する、オモチャの売り方、
ディズニーの理解する、アトラクション映像。
SW7は、そうやって作られた。
そうでないと、莫大な製作資金が得られなかったからだ。
ディズニーが、エピソード4おしに決定したお陰で、
ルーカスの、全く新しい世界観にするというアイデアは却下されたという。
全く新しい世界観にするチャンスなのに、
確実に売れる方向に金を投入することに、
スポンサーが決めたからである。
ここに、映画の制作者は誰か?
という問題が出る。
僕は、脚本家と監督が映画を作ると信じている。
創作というものはそういうものだ。
ところが。
金を出す人間が、商売がしやすいように、
場を決める権利を持つのである。
あとは脚本家と監督が、その範囲内で考えてと。
当然、事前に読めることにしか金が出ず、
新しい物語、新しい世界観に金は出ない。
(もし新しいことに金が出るのだとしたら、
新しいオモチャを売るときだ)
ことは、ハリウッド映画だけではない。
何故ジャニーズばかりが出たのか?
ジャニーズは客を呼べるからだ。
映画の出来不出来など、投資家にとっては分からないのである。
だから、金を出せるほうに金を出す。
だから、ジャニーズが出るほうに金が出る。
ジャニーズが出るからには、 クリーンでイケメンの役しか出来ない。
だって彼らには彼らのイメージがある。
女とズブズブになる汚い男なんてもってのほかだ。
こうして、金を出す側に用意された世界の範囲内で、
脚本家にストーリーを作らせるのである。
必然、ある範囲内の物語しか、作れないようになる。
あるいは、脚本家にそういうこともさせず、
既に出来合いの物語を買ってきて、
枠におさまるように変形させることを要求する。
僕はまさかあの「あしたのジョー」が、
あんな細身のハングリーさのかけらもない実写になるとは、
信じられなかった。
原作を理解していればしているほど、
あのキャスティングは間違いである。
あしたのジョーを、出来うる限り最大の方法で作るのではない。
お金の動く枠内に、あしたのジョーを変形させて収めるのだ。
正義を謳う戦隊を、出来うる限り最大の方法で作るのではない。
お金の動く枠内に、戦隊を変形させて収めるのだ。
スターウォーズの正統続編を、出来うる限り最大の方法で作るのではない。
お金の動く枠内に、スターウォーズを変形させて収めるのだ。
エピソード7は、そうやって作られた。
僕は、製作委員会方式を信用していない。
船頭多くして船山に登る、という故事成語がある。
広告の世界はこれが日常茶飯事で、
まさか映画もそうだと思っていなかった。
船頭は、スポンサーではない。
脚本家であり、監督であるべきだ。
作者は、スポンサーではない。
脚本家であり、監督であるべきだ。
ルーカスがどういうつもりでルーカスフィルムを売却したのか、
僕には分からない。
大切な息子を奴隷商人に売った、という彼の感情は正しい。
映画は誰のものか?
お金がかかる芸術は、誰が作者か?
中世から、答えは決まっている。
スポンサーではない。
苦労して造り上げた人である。
マーチャンダイジングは映画か?
映画はアトラクションか?
違う。
映画は人間の物語である。
もし、マーチャンダイジングでしか映画が作れないなら、
僕は映画を作らないだろう。
僕は角川映画なるマーチャンダイジングでデビューしたことを、
心底後悔している。
あんな売り方しか出来ない糞企業、二度とお断りだ。
太いパトロンが来るまで、
世界の片隅で物語を作り続けるだけだ。
死後発見されるかも知れないし、
どこかでパトロンが見つかるかも知れないし、
海の藻屑になるかも知れない。
マーチャンダイジングでしか映画が作れないのだとしたら、
それは映画の終わりのはじまりだ。
日本映画は、もうそろそろ危ない。
ハリウッドも、シリーズものというマーチャンダイジングだし、
危ないかも知れない。
(久しぶりに東宝系に行ったのだが、
幕間ニュースの6本待機のうち4本がシリーズもので、
僕はかなりぞっとした)
製作委員会というシステムを理解するには、
結局銀行や投資という仕組みを知らないと、
理解できないっぽい。
ということで、
映画を作るには、金融というものを理解しないといけないようだ。
僕は、芸術は文化だと思っている。
SW7は、文化としては大分下のほうだ。
2016年01月12日
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