まだ書くことがあった。
僕はそれだけSWを愛して、とても失望しているのだと、
自分でも驚いている。
究極の王道であってほしかったのだなあ、俺は。
さて、前記事で、主人公をレイとし、
敵対者をカイロレンだと仮定して、
リライトのアイデアを示してみた。
ほんとに主人公はレイなのか?
僕は、レイは、メアリースーだと思うんだよ。
メアリースーについては多くを語るまい。
三人称文学を書くのに未熟な人が陥る、
他人と自分の区別がついていない状態だ。
主人公を自分だと勘違いするゆえに、
何故か最強の能力持ちで(全能感)、
何故か都合よく話が進む(苦労するのは嫌)。
このブログでは、メアリースーに対して徹底的に斬っている。
過去記事を参照されたい。
さて、レイはメアリースーだ。
とすると、この話の主人公が見えなくなってくる。
どうやら、ハンソロではないか、という仮説が出来上がる。
正確に言えば、ハンソロとカイロレンの、
二人の物語であると。
冒頭15分がなくても話は成立する。
アトラクションが一通り終わってからが、
本当の話のはじまりだ。
そこで最も行動するのが、ハンソロだからだ。
そして、対するカイロレンには、
今作中もっとも心の葛藤が大きく描かれている。
(ちゃちな葛藤だが、相対的に最も大きい)
主人公の資格は、内的葛藤が最も大きいことだ。
我々は、物語の中で、主人公の心の中が一番の関心事になるからである。
ということで、最も最初に行動するハンソロ、
最も葛藤が大きいカイロレンが、
出会い、殺しあうシーンが、クライマックスである。
この物語のメインプロットは、
ハンソロ親子の、父殺しの話なのだ。
え?そのわりに面白くなくね?
フィンもポーも、レイも、
メインプロットではない。サブプロットである。
だからこの話は面白くないのである。
映画脚本理論的には、
結果的に、ハンソロ親子が主人公だと結論づけられるのに、
レイが主人公のふりをしてるから、
詰まらないのである。
主人公レイの物語が空洞で、
脇筋の方が主人公を食っている、という構造だから詰まらないのだ。
さてここで、
少年漫画における、主人公の空洞化(空気化)について、
論じなければならないが、
これは一度徹底的にやったので、風魔の監督メモをご覧ください。
つまり、
主人公レイが、空洞化したメアリースー。
脇筋のハンソロ親子が実質の主人公だが、ペラッペラに薄い話。
冒頭から出ているフィンが主人公じゃなく脇筋。
冒頭から出ているフィン&ポーのバディが、冒頭で途切れる。
(ないなら冒頭のバディもなしでよい。
ちなみに、このシナリオにポーは不要だ。
じいさんがBB8に地図を託せばポーを削れる)
あたりが、シナリオの構造上の問題なのだ。
さて、僕はいまだにアクションのことや、
エピソード4に大まかな話が酷似していることについては、
何一つ言及していない。
それは、見たら分かる批判点だからだ。
脚本というのは、実は目に見えないストーリー構造のことだ。
見て分かることなどは批判の対象ではない。
僕は、もっと根本のストーリー構造の話をしている。
(見て分かることの批判もめっちゃしたいのに、我慢している)
一言で、この問題は言える。
この話の主人公は誰?
群像劇なのは当然だけど、
それでも、主人公は一人と決めなければならない。
それは、映画のルールである。
(これについても過去記事を参照されたい。
糞群像劇を一本。「survive style 5+」をどうぞ)
エピソード7の最大の問題点は、
主人公が不在なことだ。
主人公とは、最も感情移入できて、
その人の問題が解決した瞬間、
私たちがスタンディングオベーションしたくなるものを言う。
エピソード7では、スタンディングオベーションがあったという。
それは、主人公レイの問題が解決したから?
ルークが出たからでしょ?
ルークが出るか出ないかに関わらず、
レイの問題が解決した!よかった!見事な話だった!
と、スタンディングオベーションしたくなるものが、
本当の映画の面白さなのだ。
(またまた自作品を引くけど、ドラマ風魔は、そうなっている)
2016年01月14日
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