SW7批判も飽きたので、子供の相手はこれぐらいにするとして。
我々は何故物語を見るのか。
人生に意味を見いだしたいからである。
もしあなたが一週間後に死ぬとしたら、何をする?
恐らくそれをしたことで、
自分の人生はこういう意味があった、
と自分で意味付けてから死にたいだろう。
物語は、それに答えるのではないかと、
僕は考えている。
物語は架空の人の、
とある時点の始まりから、とある時点の終わりまでを、
追うものである。
とは言え、実質、その人の誕生から死を追っていることに等しいと、
僕は考える。
スピンオフとかシリーズとかない限りにおいては、
その二時間以外にその人の人生はないからだ。
つまり、擬似的に、
暗闇から発生したその人の人生は、
最後の暗転で終わる。
死ぬと同義である。
だから、その人の人生に、なんの意味があったかを、
我々は論じたり語りあったり出来るのである。
あなたがあと一週間で、
死ぬ前にやり、
自分の人生は意味があったと伝えるそれは、
何だろう。
どういう意味があった、と言いたいのだろう。
そしてそれは、言うことではなく、
何かをすることでしか伝えられないだろう。
言うてるだけやん、て思われるからね。
ほんまにやったんかそれ、て感心されないとね。
物語を書く者は幸いである。
架空の人の生から死までを書くことで、
架空の人の人生にどんな意味があったかを、
シミュレーションすることが出来るからだ。
しかも、
何本も何本も、
違う人間の違う人生の、違う死に方を、
シミュレーションすることが出来るからだ。
物語を読む者も幸いである。
それらを、何本も何本も体験することが出来るからだ。
自分の人生にどういう意味があったかを、
決めることはなかなかに難しい。
いつ終わりか分からないからね。
だから終わりを決めると、急に決めなきゃいけなくなる。
死ぬ覚悟をしないと、決められない。
一つに決めることすら迷うけれど。
架空の人の人生の意味も同じだ。
しかし、
その人の人生の死(ラストの暗転)までを描くことで、
その人の人生の意味を決めなければいけないのだ。
出来れば、たった一つに。
(たった一つは、強いから)
あなたは死ぬ覚悟があるか。
自分の人生の意味を決定する何かをするか。
物語を書くという行為は、それと等しい。
だからこそ、物語は人の心を揺さぶるのだと思う。
今書いている小説は、第二ターニングポイントが終わった。
最後の一文を、「千恵は、運命に挑む決意をした。」と書いた。
つまり、死ぬ覚悟をしたということだ。
それだけの価値を賭ける、冒険の意味とは何か。
主人公の人生に、どんな意味があったと、最後に言えるのか。
それがテーマであることは、言を待たない。
2016年01月14日
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