なかなか分離して考えられないけれど。
こういうときは、どちらかを固定してどちらかを動かすと、
互いの役割を理解できる。
すなわちこうだ。
違う語り手が語る、同じお話を、考えてみる。
同じ語り手が語る、違うお話を、考えてみる。
まず前者が想像しやすいかな。
お笑いの人は話し方がうまい。
どううまいかは置いといて、
同じ話でも爆笑の度合いが違う気がする。
ホンが同じはずなのに、
落語の語り手によって差があるのも分かりやすい例だ。
あるいは同じ怪談でも、稲川淳二かそうでないかで、
随分印象が変わるだろう。
語り手は、微妙にもとの話を変形する。
話しやすいようにだ。
前ふりの情報量を変えたり、
落ちのタイミングを変えたりする。
省略や強調も入るだろう。
同じ楽譜でも歌い手が違えば強弱は違う。
お話は、楽譜をアレンジしちゃっていい。
リズムは、自分で決めていい。
リズムを自分で決めるから、
微妙な変更をしていくのだろう。
言葉の選び方も、語り手によって違うだろう。
あるいは同じ語り手でも、
日によって、回数によって、聞く人によって、
微妙に異なるだろう。
それでも我々が同一の話だと認識出来るのは、
話の構造が同じだからだ。
主人公の立場、動機、行動、結果が、
同じで、
関わる人々の人間関係、動機、行動、結果が、
同じで、
全ての因果関係(原因と結果の連鎖)が、
同じだからだ。
そしてその話が示す意味(教訓や意義)も同じだから、
我々はそれらを同じ話だと認識し、
語り手による差だとわかるのだ。
そもそも言語というものがそういうものだ。
表現は無限にある。
同じ話を、無限のバリエーションで語ることができる。
(たとえば、アイラブユーと言うために、
無限のラブソングがある)
昔話は、同一の話、たとえば桃太郎などでは、
地方によって沢山のバリエーションがある。
元は同一だったものが、語り手によって次第にディテールが変わっていったと、
考えられる。
しかしその構造(強いよそ者の子が授かり、家来を従えて敵を退治した)
と、意味(悪いことをする敵を退治=勧善懲悪)は変わらない。
(一部変わりすぎて意味も変わってるバージョンもあるかもだけど)
さて。
逆を考える。
同一の語り手による違う話は、
語り口(台詞やトーン)がほとんど同じだとしても、
話の構造が異なるものを言う。
これも言語の特徴かも知れない。
たとえば物凄く長い文を書いて、
そのあとにたった二文字「ない」をつけるだけで、
話の意味を真逆にできる。
これは日本語の特徴でもあるけれど。
たとえば「展開の順番が変わる」ことは、
それによって話の意味が異なれば、
異なる話のつくりであり、
話の意味がたいして変わらなければ、
異なる語りである。
さて、これは、リライトの話をしようとしている。
リライトは、
話作りと、語りの、両方を変える可能性がある。
今行おうとしている変更が、
話の構造(最終的な意味)を変えようとしているのか、
それとも、
語り口を変えようとしているのかを、
まずは把握する必要がある。
話作りそのものが変わったら、
語り口も全部変えた方がいいときもあるしね。
この話は稲川淳二じゃないほうがよくなった、
ということも話作りの最中にはよくある。
リライトが何故難しいか、ということの根本は、
たとえ台詞ひとつを直すにしても、
それが語り口を変えることなのか、
話作りを変えることなのかが、
混ざっていることにある。
それは、語り方を変える為の、強調や省略や変更か?
それは、話の作りを変える為の、強調や省略や変更か?
それをまず見極めよう。
それには、梗概を書いている経験が生きる。
話の構造を俯瞰しているからである。
そのわずかな変更、その大胆な変更が、
語り口を変えているだけなのか、話の構造を変えているのかを、
把握しよう。
うっかりして、話のよさを絶滅させることもある。
前の原稿の何が良かったのか、
今回の変更によって、何が良くなったのかを正しく把握しないと、
リライトはどんどん迷宮に入っていくよ。
2016年01月17日
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