2016年01月17日

話作りと語りを分けて考える

なかなか分離して考えられないけれど。


こういうときは、どちらかを固定してどちらかを動かすと、
互いの役割を理解できる。
すなわちこうだ。

違う語り手が語る、同じお話を、考えてみる。
同じ語り手が語る、違うお話を、考えてみる。



まず前者が想像しやすいかな。

お笑いの人は話し方がうまい。
どううまいかは置いといて、
同じ話でも爆笑の度合いが違う気がする。
ホンが同じはずなのに、
落語の語り手によって差があるのも分かりやすい例だ。
あるいは同じ怪談でも、稲川淳二かそうでないかで、
随分印象が変わるだろう。

語り手は、微妙にもとの話を変形する。
話しやすいようにだ。
前ふりの情報量を変えたり、
落ちのタイミングを変えたりする。
省略や強調も入るだろう。

同じ楽譜でも歌い手が違えば強弱は違う。
お話は、楽譜をアレンジしちゃっていい。
リズムは、自分で決めていい。

リズムを自分で決めるから、
微妙な変更をしていくのだろう。
言葉の選び方も、語り手によって違うだろう。
あるいは同じ語り手でも、
日によって、回数によって、聞く人によって、
微妙に異なるだろう。


それでも我々が同一の話だと認識出来るのは、
話の構造が同じだからだ。
主人公の立場、動機、行動、結果が、
同じで、
関わる人々の人間関係、動機、行動、結果が、
同じで、
全ての因果関係(原因と結果の連鎖)が、
同じだからだ。
そしてその話が示す意味(教訓や意義)も同じだから、
我々はそれらを同じ話だと認識し、
語り手による差だとわかるのだ。


そもそも言語というものがそういうものだ。
表現は無限にある。
同じ話を、無限のバリエーションで語ることができる。
(たとえば、アイラブユーと言うために、
無限のラブソングがある)


昔話は、同一の話、たとえば桃太郎などでは、
地方によって沢山のバリエーションがある。
元は同一だったものが、語り手によって次第にディテールが変わっていったと、
考えられる。

しかしその構造(強いよそ者の子が授かり、家来を従えて敵を退治した)
と、意味(悪いことをする敵を退治=勧善懲悪)は変わらない。
(一部変わりすぎて意味も変わってるバージョンもあるかもだけど)


さて。
逆を考える。

同一の語り手による違う話は、
語り口(台詞やトーン)がほとんど同じだとしても、
話の構造が異なるものを言う。

これも言語の特徴かも知れない。
たとえば物凄く長い文を書いて、
そのあとにたった二文字「ない」をつけるだけで、
話の意味を真逆にできる。
これは日本語の特徴でもあるけれど。



たとえば「展開の順番が変わる」ことは、
それによって話の意味が異なれば、
異なる話のつくりであり、
話の意味がたいして変わらなければ、
異なる語りである。


さて、これは、リライトの話をしようとしている。

リライトは、
話作りと、語りの、両方を変える可能性がある。

今行おうとしている変更が、
話の構造(最終的な意味)を変えようとしているのか、
それとも、
語り口を変えようとしているのかを、
まずは把握する必要がある。

話作りそのものが変わったら、
語り口も全部変えた方がいいときもあるしね。
この話は稲川淳二じゃないほうがよくなった、
ということも話作りの最中にはよくある。


リライトが何故難しいか、ということの根本は、
たとえ台詞ひとつを直すにしても、
それが語り口を変えることなのか、
話作りを変えることなのかが、
混ざっていることにある。


それは、語り方を変える為の、強調や省略や変更か?
それは、話の作りを変える為の、強調や省略や変更か?

それをまず見極めよう。

それには、梗概を書いている経験が生きる。
話の構造を俯瞰しているからである。


そのわずかな変更、その大胆な変更が、
語り口を変えているだけなのか、話の構造を変えているのかを、
把握しよう。
うっかりして、話のよさを絶滅させることもある。
前の原稿の何が良かったのか、
今回の変更によって、何が良くなったのかを正しく把握しないと、
リライトはどんどん迷宮に入っていくよ。
posted by おおおかとしひこ at 12:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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