いい映画は、「主人公としての体験」を与える。
そしていい映画は、「それが納得のいく、凄い体験」である。
クリードは、そういう映画だった。
(勿論多少の瑕疵はあるけど、
それを補って余りある、図太いストーリーがあった)
それはどういう技術によって作られているか?
ミッドポイントの見事な、
ワンカット試合シーンや、
クライマックス、控え室のミットうちからリングインまでの、
ワンカットシーンか?
これは体験的カットとして物凄く優秀だ。
これは脚本には書いてない部分で、
監督の演出だろう。
普通脚本にはワンカットかどうかは書かないからだ。
しかし、そのずいぶん前から、
我々は主人公アドニスと、人生を共にしている感覚がある。
さあ技術的にはどこだ。
トップシーンだ。
実はワンカット演出はここから既にはじまっている。
少年刑務所の廊下、罪を犯した少年たちが一列に並べ、
と言われ、我々はそのなかにアポロの息子がいるのかと目を凝らしたとき、
カメラがそれを捨てて中に入って行き、
乱闘を捉え、その中心に暴れる黒人の子を捉える。
ここだ。
もう我々は、ここで主人公の登場に心を捕まれはじめている。
平凡でない、特別な黒人の子。
殴られたら馬乗りになり返し、殴り返す気性の荒い子。
これは、この子の更正の物語である、
と、たったワンカット(確か切り返したから実質3カットぐらい?)
で、私たちの心は、この話のブックエンド
(ファーストシーンとラストシーンの対比で、
ビフォーアフター的にテーマを見せること)
を理解するのだ。
極めて上手な導入だ。
セカンドシーンは、母親が面会に来るシーンだ。
我々はそこで彼の出自を知ることになる。
僕は前情報を入れていなかったので、
ほほうそう来たのか、と「単なるアポロの息子」でないところに膝を打った。
このたった2シーンで、
アドニスのセットアップが終わっている。
妾の子という立場、父も知らない立場、
母を失いたった一人で生きてきたこと、
そして、アポロを愛する本妻の、養子になること。
そしてその、目の強さ。
ボクシングはハングリーなスポーツだと言う。
だから人生を描くのに相応しい。
最も逆境から、最も栄光へと、
人生のどん底から最高のステージへと、一夜にしてかけ上がれるからだ。
その意味で、トップシーンにこのどん底を持ってきたのは、
とても上手かった。
だけど、良くあることだけど、
子役から始めると、その子役が凄いいい表情したりして、
あとに来る大人の役者の印象が残りづらかったりするんだよね。
ニューシネマパラダイスのトト、
SWプリクエルのアナキン、
みんな子役のイメージの方が強いよね。
我らがアドニスのイメージは、多分、
あの独房で振り返ったときの、あの子役の目になっちゃうんだよな。
子役から始めることのデメリットを知らなかった、
監督の未熟の出た失敗だった。
ところで、実はこれを逆転する手がある。
どん底を作ることだ。
トップシーンにどん底を持ってきたのは上手かったが、
もっとどん底を、大人のアドニスの役者の場面で、
作るべきだった。
可能性としてあり得るのは、
彼女のライブを喧嘩でめちゃめちゃにしてしまったシーンだろう。
ベイビークリードで直接には切れたことになっている
(その直前に癌の話で揉めて、
ロッキーからリアルファミリーじゃないと拒絶された文脈がある)
が、あの乱闘を、もっとちゃんと描くべきだったんじゃないかなあ。
たとえば。
どうして彼が切れたのか、あの廊下でもっと丁寧に描くべきだった。
親をバカにされるとケンカする、
というのは子役で示していたから、
やはりそこを使うべきだった。
クリードの息子だけど、妾の息子、というネタを、
週刊誌などにすっぱぬかれ、それを周知したほうが良かったと思う。
過ちの息子って呼ばれても良かったと思う。
俺はリアル息子じゃない、
リアルファミリーじゃない、
という、アドニスの芯にもっと迫るべきだったなあ。
何故親をバカにされると切れるのか、
それは自分に自信がないからだ。
(それは試合直前にトイレに行く、みたいなちょっとしたことで描かれていたが、
脇過ぎた。正面からやるべきだった)
自信がないことに向き合わなきゃ、
成長はない。
どん底で自分を見つめるシーンが、もっと欲しかったと僕は思う。
「ベイビー・ミステイク・クリード」と呼ばれていれば、
完璧だったかなあ。
留置場でのロッキーとの和解はなかなかよくて、
その後のシャドウもとても良かった。
僕はあそこで、鏡の前での指導が甦るべきだと思った。
自分が最大の敵だという、その意味をアドニスが理解するべきだった。
自分の最大の敵は、まだ自分が何者でもないことだ、
と自覚して欲しかったところだ。
ボトムポイントは、旧来の自分に向き合い、
新しい自分へのヒントが必ず現れるパートである。
この映画には、ボトムポイントの、どん底感が足りなかった気がする。
ちなみにロッキー1にはちゃんとあって、
たった一人で走り出すところだ。
有名な生卵を飲むのは、そのシーンのトップである。
まだミッキーもいない、たった一人の孤独な挑戦。
比較で言うと、この一人の時間を、大人の役者アドニスは、
過ごしていない。
その後ジムが開いてなくて、お前アポロの息子なんだって?
と聞かれたシーンに、それを描くチャンスがあったが、
流れてしまったのが惜しい。
「ああ。でも妾の子なんだ」と答え、
「俺も。そんなのこの町には沢山いるじゃん」みたいに、
あの子が微笑めば、少しは印象が変わったと思う。
彼はエリート過ぎるのかも知れない。
イタリア移民に比べて、
フィラデルフィアの黒人街というどん底に、
まだ行ってなかったのかも知れないね。
そのヒントを与えてくれるのは、やはり黒人の子であるべきだったかも知れない。
そういう意味で、ハングリーさでギラギラしたのは、
トップシーンの子役のみだったかもだ。
一番ハングリーであるべき、ボトムポイントが弱いのが、
この映画のアキレス腱かもね。
まあ、ロッキーが癌で、エイドリアンもそれに倒れた、
なんてことで、それどころじゃなかったのかも知れない。
だが、この映画の主役は、
ミステイクだと言われ続けたアドニスであり、ロッキーではないのだ。
係り結びで言えば、
クライマックスのアイムナットミステイクに繋ぐには、
どん底で、ミステイクと心を闘わせておくべきだったかな。
あるいは、留置場で、子供時代と同様に振り返り、
あの時は何もなかったが、
今はボクシングがある、と自分を確認するショットがあれば、
我々は大人のアドニスに、感情移入しきれたかも知れない。
アドニスに比べて、ロッキーの癌が強すぎたのかも知れない。
さて、この辺りをのぞけば、
実は脚本技術的には、大変上手になっている。
絶頂からのどん底、どん底からの絶頂、
になるように、きちんとストーリーが組まれているのが上手だ。
特にミッドポイントの勝利後、
セックス明けのアポロの息子ニュースの場面は、なかなか良かった。
ブレイクシュナイダーのいう、「迫り来る奴ら」だ。
二幕後半のテーマ、出自と向き合うこと、への入り口としてとても良かった。
(ただ上で議論したように、ロッキーに振りすぎた)
前半戦でも、
音楽で寝れない→かわいい子→ライブ覗き見→デート
→補聴器のエピソードで本格的に惚れ、自分の行動の動機になる、
というアップダウンはとても上手かった。
日本の下手な脚本家なら、
ここまでで1クールかけちまうぜ。
研ぎ澄ました台詞、無言の台詞の使い方が、大変上手だった。
主人公としてその映画を体験すること。
それは、感情移入そのものである。
何度も論じているように、
感情移入とは、我々とは全くかけ離れた人間にこそ起こる。
全くかけ離れた人間の中に、
我々の人生と共通のものを見つけた時に、起こる。
その流れ、起伏が、
(一部をのぞいて)トップシーンから、
とても上手かったのが、
この映画の素晴らしいところだ。
アカデミー新人脚本賞があるなら、
是非あげたい、いい脚本だった。
批評家が誉めたのも、とてもよくわかる。
贅沢を言うなら、
ラストシーンのロッキーステップで、
ロッキーの「人生は悪くない」の台詞に対して、
彼なりの台詞で返して終わって欲しかったところだ。
(アイムナットミステイクを既に言ってしまっているので、
何を言うかは難しい。俺もそう思うよ、と言って、
生意気言うなと小突かれるぐらいでも良かったかもね。
彼はアポロの息子にしては、カールウェザースの持つ、
華やかな明るさがないんだよね。
そこを自信が生まれた後で、似て欲しかったなあ…)
2016年01月17日
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