2016年01月17日

没入感と三人称(クリード批評4)

ミッドポイントにおける、ワンカット撮影の試合シーン
(vsレオ戦)は、凄かった。

が、冷静に考えると、あれは正解だったのか?


映像効果的に凄いことは見れば分かる。
13テイク撮り、テイク11を採用したのだそうだ。
リアルタイムの没入感や緊張感は凄かった。

だが、あとで思い出すと微妙だったのだ。
「あの試合になんの意味があったのか?」がだ。

あの試合には因縁があった。
単なるアドニスのデビュー戦だけではなく、
俺の息子を育ててくれという、
ミッキージムの親父を無視して、
「アポロの息子」をロッキーが育てたという。

本人同士の因縁よりも、
親父同士の因縁が深かった。
(そしてそののち、アポロの息子という情報がリークされることへ、
繋がる)

ここで、本人同士の因縁が欲しかったところだ。

そうでなければ、我々はアドニスの人生に、
深く入れないからである。

試合には深く没入出来たが、
アドニスの人生には、あの試合で深く没入出来なかったのだ。


「ドラクエは主人公は台詞を喋らない。
何故ならプレイヤーが動かす視点だからだ」
という話を思い出す。

あの試合の間、我々はアドニスの中に没入して、
プレイヤーとなっていた。
映像体験としては素晴らしかったが、
それは、彼の人生を体験することではない。


人生を体験するということは、
これからすることに何の意味があるかを事前に知り、
その結果が人生に何をもたらすかに、
ハラハラすることである。

この試合は、彼のデビュー戦だった。
「負けたらどうなるか」が事前に描かれていなかった。
たとえば、「口だけの野郎」で終わることへの恐怖で良かったし、
たとえば、アポロジムでぶっ倒した野郎と友達で、
その情報を対戦相手が聞いていた、とかの、
追加があれば良かった。
会場には、賭けで取られた自分の高級車が停まっていて、
ニヤニヤ笑うアイツがセコンドにいた、
ぐらいでさ。

「世界戦に何故だか指名され、
その試合で下馬評を覆して名勝負をし、
自分の価値を証明する」
という、ロッキー1のパターンを、
果たして踏襲するべきだったかなあ。

あのアポロジムの野郎がラスボスで、
(ついでにチャンピオンにでもなっていて)、
その因縁を、ミッドポイントで強化したほうが、
良かったんじゃないか?

イギリスへ行くことは、絵がわりのアイデアでしかないよね。

因縁をきちんと作れば、話が面白くなる。
アポロジムの野郎なら、
「正当後継者vs過ちの息子」というアングルも作れたのにな。



その行動に、なんの意味があるのかがストーリーだ。
その行動の成否で、どのように意味が変わってしまうのかが、
ストーリーだ。

それが、三人称的ストーリーの感情移入の構造である。

あの素晴らしい何分間か、
我々はアドニスの一人称になっていた。
だが、ストーリーは薄くしか進まなかった。

物凄い苦労は勿論分かる。
だが、その何分間か、
彼はただ踊っていただけだ。


だから、クライマックスで初出なら相当良かったのではないか?
だって控え室からリングに上がるまでワンカットで行ったとき、
滅茶苦茶良かったもの。
このまま最終ラウンドの名場面まで、
一気にワンカットで行くべきだったのでは?

まああとで言うことは何とでもできる。

実際のところ、
ミッドポイントはワンカット撮影の試しだったのかもだ。
会場は狭いし、エキストラも少なくていいし、
敵も役者だからコントロールが効くし。
クライマックスは会場がでかくて、照明は沢山必要で、
エキストラも沢山入れて、
敵はボクサーだからコントロールが精妙にいかない。
(何度でも同じアクションを13回繰り返す集中力はないだろう)
ということで、
制作の都合で、ミッドポイントがワンカットになった、
ということが十分に考えられる。

だが、あそこがワンカットである意味は、
上で議論したように、ない。


ワンカットの没入は、ガワの興奮でしかない。
三人称的ストーリーは、それになんの意味があるのかで、
感情移入をする。
posted by おおおかとしひこ at 14:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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