2016年01月18日

その話は、人を引き付け続けているか?

これを客観的に見ることは、とても難しい。

ひとつ指標があるとしたら、
「自分がこう書きたい」と拘っている所ほど、
引き付けが弱く、詰まらなくなっている可能性が高い。


自分のセンスや、
自分のキャラの、
自分の神展開の、
押し付けになっている可能性が高いからだ。

これを書くためにこれを書いたのだ、
と思うところほど、
ひょっとしたら、
観客の興味が覚め、詰まらない部分と思われている可能性が高い。


まあ、書きたい所は、書く側の情熱の部分だから、
全否定はしない。

問題は、「そればかり続く」ことにある。


あなた独特のセンスが、どれだけ素晴らしいかは、
それを見てみないとなんとも言えないが、
見なくても分かる、客観的なポイントがある。
それがあれば、観客の興味が引き付けられているだろう、
という確信になる。


感情移入していて、それが途切れていないこと。
感情移入した場面の感情移入と、違う感情移入へと変化していっていること。
(同じ感情移入の種類では飽きる。
たとえば「悲劇の主人公」という感情移入をしたあとに、
常に悲劇ばかり襲ってきても飽きる。
一回幸せにしてやって、そこに感情移入し、
更なる悲劇が襲うほうが、感情移入は振り回される)

焦点がはっきりしていること。
つまり、何のためにこれをするのか分かっていて
(ただ説明したって伝わらない。感覚で分かることだ)、
それがパッと考えた解決法よりも最善手で、
その成功とセンタークエスチョンの関係が明瞭で、
その失敗のリスクが、
ちゃんと分かっていること。
「分かっている」のは、ただ説明してもダメだ。
説明には上手下手がある。
うまい説明は、説明文がないように説明する。
(つまり絵で分かるようにする)


これを差し置いて、
あなたの書きたかったセンスの塊を並べると、
感情移入と焦点が、必ず遠ざかって行く。

極端に言うと、あなたのセンスはゼロでよい。
感情移入と焦点だけを追い、
ターニングポイントで方向がえをすることだけに、
注意し続ければいいのである。



恥ずかしながら、
僕は小説というものを書いている。
処女作(未発表)、てんぐ探偵(発表)、処女作リライト(なう)、
という大きくは三本だ。
数年前の、まだなんにも知らないときに書いた処女作は、
やはり「俺独自のセンスを爆発させてやろう」と、
意気込んでいる所が、とても痛々しいということが、
客観的に読んでみて分かった。

人は何に引き付け続けられるのか?

話の行方であり、あなたの蘊蓄ではないのである。

話の行方が面白くなさそうなら、
それは退屈なのである。


SW7とクリードの、決定的な差がこれなのだ。
SW7は、話の行方に興味が持てず、
強制的に次の風景がやってくる、ライドだ。
クリードは、話の行方を積極的に予測し、
共有し、出た結果を主人公たちと共有する。

ともに歩む感覚、と、脚本の教科書では言われる感覚だ。
ライドだと、強制。
映画は、自然にのめり込む。
posted by おおおかとしひこ at 11:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック