2016年01月18日

鎌倉は淡々としなければならないルールでもあるのか?(海街ダイアリー批評)

小津が遺した遺産を、継いだかどうかしか、
批評ポイントがないんじゃないのこれ?

ハッキリ言えば駄作である。
広瀬すずという(当時の)逸材と、
鎌倉という場所に乗っかっただけで、
なに一つドラマツルギーを紡ぎだしていない。


人が来て、生活して、死んでいく。
そして海のもとで我々は老人になる。

それの、何がおもろいのや?

この映画が評価される、意味が分からない。
分かるとしたら唯一。

老人たちが評価した、ということだ。

私たちが大事にしたものを、
若者たちが自分なりに使ってくれることに、
涙が出るのではないだろうか?



日本の家族は、失われつつある。
それは皆感じている。
受け継ぐことは、殆どの確率で出来ないだろう。
その気持ちを、拾った作品だ。


だから、ドラマツルギーではなく、
受け継ぐ様をただ写すだけで、
評価されるのである。


つまらん。
そんなもので感動してる暇があったら、
日本人のことを勉強して、
嫌なことも美しいことも厳しいことも、
受け継げばよいではないか。
日本家屋をマンションにしてないで、
庭を手入れしろや。

僕は長男で、家を受け継がなければいけないのだが、
綾瀬はるかに、個人的に感情移入してしまった。
でも、4人全員に感情移入しなければ、
この映画は成立しない。

誰かが誰かには感情移入出来る仕組みにはなっている。
だが、それは薄い感情移入でしかない。

何もかも薄い。

ずっと同じトーンの瀧本幹也のシャシンが、
唐突に入る菅野よう子の、同質の感情しかない音楽が、
ずっと同じ音量のボソボソしゃべる演技の質
(オールアフレコで、たまにこういうのあるよね)が、
とても退屈だった。

二時間、同じ金太郎飴を見させられる苦痛。
変化のないドラマ。

それを広瀬すず(当時の逸材)で持たせただけだ。
ヒロスエのときもそうだった。
シャシンは、映画ではない。
金太郎飴は、映画ではない。
変化しないものは、映画ではない。

日本人は、四季を巡る変化しながらもとに戻る自然観で生きている。

映画は、そうではない。
永遠の変化を描くものだ。

長女はボストンにゆき、次女は男の家で同棲し、
すずは夏合宿で留守にし、
家はマンションになる計画が表に出るべきだった。

ストーリーが立ち上がる、
つまり法事で母がやってくるまで、
実に映画の半分、一時間を使っている。

ハリウッド映画なら、それは開始15分でしなければならない。
本編スタートは開始30分だ。
つまりは、残り90分をドラマツルギーに割くのである。


逆に考えよう。
この映画のクライマックスは、何だったか?
何もなかったよね?

ラスト、食堂のオバチャンの葬式の前のシーンは?
花火?もう思い出せないや。

つまり、何かの心配事が、決着がつく、
という、物語の基本が何もなかったのだ。

ダイアリー、というタイトルで逃げを打っているのが許せない。
ドラマツルギーじゃなくて、記録ですよと。


是枝氏は、物語を描く力がないのだから、
ドキュメンタリーで日本を描いてはどうか?

逆に。
こんな糞映画、のさばらせてんじゃねえよ、邦画界。
もっと面白い物語を、ちゃんと作ろうじゃねえか。
posted by おおおかとしひこ at 12:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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