この糞映画を理解することは、
我々がストーリーというものを、
どのように考えればいいかの、
反面教師になる。
さて、写真と映画はどう違うか?
実はこの映画は、
ひとつの写真にほぼ凝縮出来る。
縁側で四姉妹が、それぞれの笑い方で笑う、
タイトルカットでだ。
つまりこの映画は、タイトル通り、ほぼアルバムである。
鎌倉のいい感じの日本家屋に住む、
美しい四姉妹。
長女はしっかりもので自分が出せない看護婦。
(結果、医者と不倫をしている)
次女は酒の強い風来坊。
(結果、男に捨てられまくりで、仕事も中途半端)
三女は変わり者。
(ずっとお味噌扱いで、構われていない)
四女は異国の者。
(それゆえ、いつもここでいていいんだろうかという不安)
彼女たちがご飯をつくり、買い物をし、梅酒をつくり、
洗濯し、風呂に入り、喧嘩したり仲直りする。
つまり、「生活」する。
この映画は、それを、作り事のようではなく、
本当にありそうなこととして、切り取る。
そのドキュメンタリーのような、本当の感じ、
をたしなむ映画だ。
物語に感情移入するのは、
自分に似た所がある部分だ。
責任感のある人は長女に、
アイデンティティーの定まっていない若者は四女や三女に、
働いたはいいが自分が見いだせない若い社会人は次女に、
そして老い先短い人は、母や食堂のオバチャンに。
元が少女漫画だからか、
男が全員ダメ男なのが、女たちのリアルを加速する。
だが、
我々が感情移入するのは、
彼女たちではなく、
「彼女たちを見て思い出した、自分」だ。
たとえば長女に感情移入するとき、
不倫する看護婦は大変だなあ、ではなく、
俺も責任感ばかりで本音を出せなくて苦しい、
と、「自分の物語」を思い出して、
思い入れる。
これは感情移入ではなく、思い入れや贔屓である。
長女への共感は、彼女の物語ではなく、
彼女の「ポジション」にこそ行われるのだ。
(設定厨、ここ赤線な)
映画の感情移入というのは、そうではない。
ポジションで自明、省略としない。
彼女が責任感に苛まれて、
ほんとはいっちゃいけないこともきちんと言い、
そのことで個人的に不利益を被っても、
自分より責任(この場合家)を優先してしまうことを、
具体的なエピソードで描いておいて、
「ああ、そういうことあるよなあ」
と、観客全員に思わせなきゃならないのだ。
彼女の不倫についてもそうだ。
自分の快楽より相手を優先してしまうことを、描くべきだ。
(常に洗い物をしてる姿で、暗示は出来ているけど)
それがないので、そのポジションあるあるの人しか、
長女の立場を「理解」出来ないのである。
僕は長いこと生きてるし映画も見てきたから、
全てのポジションのことはそれなりに理解するけど、
全ての観客はそうではない。
何故長女が自分を抑えるのか、分からない人もいると思う。
それを、説明ではなく、
一発のエピソードで、分からせて感じさせるのが、
映画のストーリーという芸術である。
つまり、この映画は、
ストーリーによる技巧を使わず
(是枝のこれまでの作品からすれば、使えず、と考えるのが正しそうだ)
ポジションだけで人物を描写している。
さて、本題。
いい写真とは何か?
構図や色彩や光や題材やフレーミングがいいのは、
最低条件として。
僕は、被写体を見て、想像が膨らむのがよい写真だと考えている。
つまり、被写体以上の情報量が、
見た人から出てくるもの、である。
だから、写真というものは、
「想像の余地」を残すべきだと思う。
瀧本幹也という写真家は、
僕はそれなりに尊敬している。
想像が膨らむ、いい写真を撮る。
たとえば今月のスイッチの表紙は、
海街ダイアリーのタイトルカット撮影時に同時に撮ったと思われる、
監督こみの五人の写真で、
とても想像が膨らむ。
想像が膨らむ、というとき、
想像するのは俺だ。
つまり、物語は俺側にある。
これで言いたいことが繋がった。
海街ダイアリーは、いい写真なのだ。
想像するのはこっち側なのである。
これは、映画的ストーリーではない。
映画のストーリーというものは、
そのポジションに関わらず、
誰もが納得する感情移入を作り上げ、
それが人生を賭けた目的を持ち、
それを実現する為に冒険を果たし、
結果、最初の自分では思いもしなかった変化を遂げることである。
想像の余地などどこにもない。
観客側の物語を借りない。
そこにある三人称の軌跡で、
我々全員を納得させ、感動させるものを言う。
四姉妹のうち、誰が冒険したか?
長女は冒険したか?(ボストン行きを断った、母に梅酒を届けた)
次女は冒険したか?(スーツを買った、酔って長女に言いにいった)
三女は冒険したか?(釣りをしに行こうと言った)
四女は冒険したか?(花火の帰りに本当の自分を言った)
()内に書いたのは、
冒険と思われる内容だ。
ちっさ。
これが起伏のない理由だ。
ボストンとかの空間的スケール感が起伏を決定するのではない。
自分の全部を賭けるか賭けないか、が、
スケール感を決定する。
たとえ半径2メートルでも、スケール感が作れるのが文学というものだ。
この話は、一軒家の四姉妹というモチーフで、
彼女たちの心という、大きな大きなものを描く、
格好の題材だった。
にも関わらず、心の小さな機微を描くだけで、
単なる写真の羅列に終わったのだ。
絵のトーン、音楽の曲調、芝居の声の出し方、
これが常に同じなのには理由がある。
変化しないからだ。
変化しないということは、写真であり、
変化をするのが怖いからである。
つまり。
映画というのは、
「変化するのが怖いという恐怖感を断ち切ってでも、
変化しようとする心を描く」ものでなければならない。
それは、内的動機ゆえだ。
内的動機が燃えるようにあるからこそ、
人はぶつかり合うのである。(コンフリクト)
ところで、この映画の中にコンフリクトはあっただろうか?
長女と次女のなんとなくの対立かなあ。
あとは全部心の中のわだかまり程度だと思う。
心の中のわだかまりは、カメラに映らない。
心の中のわだかまりを、人間関係のぶつかり合いに「置き換えて」描くのが、
カメラで写す映画というものである。
(予測だけど、原作が少女漫画だから、
モノローグが多用されていたのではないか?)
さて。
写真と映画の違いは何か?
写真は動かない。
映画は動く。
写真は、動かないことで想像させる。
映画は、動くことでその動きに観客を巻き込む。
何故巻き込まれるというかというと、
起こっていることが派手で面白そう(ガワ)で、
かつ、
感情移入した人物が、変化を怖がりながらも、
自分を賭けて闘おうとする(中身)だからだ。
海街ダイアリーは、ただの一枚写真であり、
映画ではない。
ちなみに、SW7もそうだ。
SW7の場合、写真がもうちょっと多かっただけだ。
(その殆どは出落ち=キター!デター!の瞬間)
海街ダイアリーやSW7を評価する人は、
要するに写真程度しか理解できない知性の人間なのだ。
中身のないファッションに、乗っかるだけの人間だ。
この映画の出現によって、
ファッションがもはや現代を牽引しない、
ということが、
むしろ暴露された気がした。
2016年01月18日
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