あの映画で、たとえば、
長女の不倫相手が、あの家に上がってきたら、
どんなに嫌だろう。
そんなの想像するのも嫌だろう。
自分達の聖域、踏み込まれたくない領域を侵犯されるのは。
それが起こるのが、そもそも映画というものである。
海街ダイアリーには、
そのような、自分の大事な部分を犯される展開がなかった。
だから詰まらないのだ。
身勝手な母がこの家マンションにしよう、
と言ったところは面白かった。
自分を侵犯される恐怖や嫌悪感があったからだ。
それを排除したり、融合したりすることが、
物語なのである。
これは、男よりも女のほうが分かりやすい。
付き合うということは、
自分の領域と相手の領域をある程度溶かし合い、
自分の領域に相手を立ち入ることを許すからである。
だから恋愛というのは劇的なのだ。
物語は、これを対立(コンフリクト)の形に置き換えるのだ。
主人公(たち)の大事にしている、
犯されたくない領域が汚染されたり危機に瀕することが、
そもそも主人公たちの行動の内的動機になることが多い。
(よくあるのは、クラブや母校が潰れるから、
スポーツ大会で優勝しなければならない、
というパターンだろう。
クリードでは、お前はいらない子だという、
強烈な自己否定を覆す話だった)
物語とは、主人公(たち)の、存在が脅かされなければならない。
単に困ったことが起きて、解決するのは物語ではやない。
次女の保険屋としての仕事が胸に響いたのも、
親しい食堂のオバチャンのことだからだ。
次女とオバチャンの関係という、
自分の存在の領域が脅かされたから、
ドラマツルギーになり得たのである。
問題は、自分自身にまで降りかからないことだけだ。
さて。
存在が脅かされるのは、開始何分か?
ハリウッドの法則では、開始8分ないし10分である。
カタリストやインサイトインシデントと呼ばれる事件である。
遅くともファーストロール、15分以内に起こるべきだ。
何故なら、感情移入(の初手、興味)がそこまで起こらないからだ。
それを受けたら主人公の行動によって、
我々は感情移入をしはじめ、
25分から30分あたりの、
第一ターニングポイントで完全に主人公と一体化するものである。
しかるに、この微妙映画の、
物語が動き出すポイント、母親の法事への列席は、
時計を見ていたが一時間以上経ってからだった。
おせえよ。
この微妙映画は、
主人公(たち)の存在は、全く脅かされない。
安心がテーマならば、
安心→脅かされ→新しい安心へと落ち着く、
という構造になるべきなのたが、
ひたすら安心という一枚絵(写真)を描いているだけだった。
危機はない。
オバチャンは癌になるが、次女の存在理由は危ぶまれない。
やさしい世界(写真)なのだ。
映画はやさしい世界ではダメだ。
我々の感情が激しく揺さぶられ、
心臓がドキドキし、汗が出てきたり涙が出てこなくてはならない。
たとえやさしい世界が前提でもだ。
だから、主人公(たち)は、
存在が脅かされなければならないのである。
だめな映画を分析することは、
理想では何があるべきか、
理想には何があるべきではないか、
ということを教えてくれる。
それは、自分の書いた物語を直接批判する時に使える。
この糞映画には、存在が脅かされることがあるべきだ。
この糞映画には、ずっと同じ状態(無変化)が、あるべきではない。
つまり、もっといさかいや喧嘩やすれ違いや、
人の気持ちに土足で踏み込むことが、
あるべきだった。
それを四姉妹内のドラマでやれば、面白くなった筈だ。
「なんだかんだ言ったけど、私たち姉妹だもんね、
似た者同士だよ」
という落ちでやさしい世界に戻れば、
きちんと落ちた筈だ。
もちろん、ただのドキュメンタリー監督の是枝には、
そんなドラマツルギーは書けないだろうけど。
2016年01月19日
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