2016年01月19日

存在を脅かされること(海街ダイアリー批評3)

あの映画で、たとえば、
長女の不倫相手が、あの家に上がってきたら、
どんなに嫌だろう。

そんなの想像するのも嫌だろう。
自分達の聖域、踏み込まれたくない領域を侵犯されるのは。

それが起こるのが、そもそも映画というものである。


海街ダイアリーには、
そのような、自分の大事な部分を犯される展開がなかった。
だから詰まらないのだ。

身勝手な母がこの家マンションにしよう、
と言ったところは面白かった。
自分を侵犯される恐怖や嫌悪感があったからだ。

それを排除したり、融合したりすることが、
物語なのである。


これは、男よりも女のほうが分かりやすい。
付き合うということは、
自分の領域と相手の領域をある程度溶かし合い、
自分の領域に相手を立ち入ることを許すからである。
だから恋愛というのは劇的なのだ。

物語は、これを対立(コンフリクト)の形に置き換えるのだ。

主人公(たち)の大事にしている、
犯されたくない領域が汚染されたり危機に瀕することが、
そもそも主人公たちの行動の内的動機になることが多い。
(よくあるのは、クラブや母校が潰れるから、
スポーツ大会で優勝しなければならない、
というパターンだろう。
クリードでは、お前はいらない子だという、
強烈な自己否定を覆す話だった)


物語とは、主人公(たち)の、存在が脅かされなければならない。

単に困ったことが起きて、解決するのは物語ではやない。

次女の保険屋としての仕事が胸に響いたのも、
親しい食堂のオバチャンのことだからだ。
次女とオバチャンの関係という、
自分の存在の領域が脅かされたから、
ドラマツルギーになり得たのである。
問題は、自分自身にまで降りかからないことだけだ。


さて。

存在が脅かされるのは、開始何分か?

ハリウッドの法則では、開始8分ないし10分である。
カタリストやインサイトインシデントと呼ばれる事件である。
遅くともファーストロール、15分以内に起こるべきだ。
何故なら、感情移入(の初手、興味)がそこまで起こらないからだ。
それを受けたら主人公の行動によって、
我々は感情移入をしはじめ、
25分から30分あたりの、
第一ターニングポイントで完全に主人公と一体化するものである。

しかるに、この微妙映画の、
物語が動き出すポイント、母親の法事への列席は、
時計を見ていたが一時間以上経ってからだった。

おせえよ。



この微妙映画は、
主人公(たち)の存在は、全く脅かされない。
安心がテーマならば、
安心→脅かされ→新しい安心へと落ち着く、
という構造になるべきなのたが、
ひたすら安心という一枚絵(写真)を描いているだけだった。
危機はない。
オバチャンは癌になるが、次女の存在理由は危ぶまれない。

やさしい世界(写真)なのだ。

映画はやさしい世界ではダメだ。
我々の感情が激しく揺さぶられ、
心臓がドキドキし、汗が出てきたり涙が出てこなくてはならない。
たとえやさしい世界が前提でもだ。

だから、主人公(たち)は、
存在が脅かされなければならないのである。



だめな映画を分析することは、
理想では何があるべきか、
理想には何があるべきではないか、
ということを教えてくれる。

それは、自分の書いた物語を直接批判する時に使える。

この糞映画には、存在が脅かされることがあるべきだ。
この糞映画には、ずっと同じ状態(無変化)が、あるべきではない。

つまり、もっといさかいや喧嘩やすれ違いや、
人の気持ちに土足で踏み込むことが、
あるべきだった。
それを四姉妹内のドラマでやれば、面白くなった筈だ。
「なんだかんだ言ったけど、私たち姉妹だもんね、
似た者同士だよ」
という落ちでやさしい世界に戻れば、
きちんと落ちた筈だ。

もちろん、ただのドキュメンタリー監督の是枝には、
そんなドラマツルギーは書けないだろうけど。
posted by おおおかとしひこ at 12:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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