予測が出来ない展開!
というのはよく言われる。
だからついつい、次どうなるんだ!
という「つづく」を用意しようと、
僕らは頭を捻るのである。
しかし、それだけではない、ということも知ろう。
何故人は続きを、興味をもって見るのか?
実は、我々は無意識に、
この先どうなるか(興味があれば)、
予測しているものである。
展開や結末や、今は伏せられている真実の理由や、
謎についてだ。
それが、自分の予測通りか、確かめたいのである。
たとえば、
恋人のすれ違いものやラブストーリーは、
最後に結ばれることは、理性では分かっている筈だ。
わかっているのに、我々はその行く末にハラハラするのだ。
何故か?
色々あったとしても、
やっぱりヒロインとヒーローは結ばれて欲しいからだ。
ハラハラするすれ違いだけれど、
この恋は成就する、と無意識に予測していて、
その予想を確かめたいからである。
「な? 二人は結ばれただろ? 最初からそうなると思ってたのさ」とか、
「な? 主人公は生きてただろ?」とか、
本当は誰かに言いたい。
「そうなると思ってたんだ!」
と、予測が当たることは、ある種の快感なのである。
それは、現実では予想が滅多に当たらないことの、
裏返しかも知れない。
現実は理不尽でノイズが多く、
法則が発動しても上手く行かないこともある。
だから、フィクションでは、
法則がある秩序ある世界で、
正しいことは正しいと評価されて欲しいし、
法則に従えば愛が成就するさまを見たいのである。
物語は、現実をある程度整理したものだ。
どう整理しているかというと、
因果関係がしっかりしている、モデル世界、という風にだ。
その近似の仕方が嘘臭いと、
現実のモデリングが甘い、作り物くせえ、と、信頼されなくなる。
そのモデリングは、
現実に瓜二つに近づけていくリアリズムと、
突飛な世界なのだがそれ以外はわりとリアルな世界の、
二種類がある。
(ドラマ風魔は後者だ。小次郎は、漫画だが現実っぽくも造形されている。
漫画だけど、この世界にほんとに生きてるとしたら、
ほんとに生きてるみたい、と思わせることに成功している。
これが、フィクションである)
で、その世界の法則を、確認したくて、
人は続きを見たがるのである。
切ない恋は成就する、ということを予測したり(半分願望)、
正義は報われなくても勝利する、とか、
死にそうになっても生き残る、とか。
あるいはもっと細かい精度で、落ちを予測したりする。
この話はこういう落ちなのではないか、みたいな。
その通りになれば、
「な? 俺はこうなると思ってたんだ」と言いたい。
「だって、世界はこうできているのだから」
という言葉がその裏にいるのだが、
なかなかそこまで人は言語化出来ないが。
あなたの物語が、
落ちが読めることは、
ひょっとすると利点かも知れないし、欠点かも知れない。
落ちが読めるくせに、そこに至るまでが平坦だから、
詰まらないだけかも知れない。
その場合、落ちが読めることは、欠点になる。
ところが、
落ちが読めているのに、
そこに至るルートが読めず、
予想もつかない展開になり、
これ○○って落ちになるよな?
と心配するぐらいのものが、
落ちはこうなって欲しい、と、
観客の心を引き付け続けるのである。
またドラマ風魔を例に出すけど、
風魔サイドの勝利は確定でしょ。
原作の大まかな展開も準じてるから、
対戦相手も予測出来るでしょ。
にも関わらず我々が引き付けられるのは、
小次郎がリアル(「本当に、人が死んでいくんだ」)で、
なおかつ、壬生と陽炎という分裂劇が、
先を読まなくさせるからである。
逆に海街ダイアリーが詰まらないのは、
どうせ四姉妹が一緒に仲良く暮らしました、
か、分裂しました、しか落ちがないくせに、
全く予想を確かめたくならず、
その予想を裏切るルートもないからだ。
これどう落ちをつけるんだろう?
と思いながら、
我々は、こう落とすんだろ?という予測を、
同時に確かめたい。
面白い物語は、この両方を満足させる。
予測のつかないバッドエンド?
そんなもんただの中二病で、
物語がどういうものかを、
なにも知らない奴が書く無知さ。
我々は、物語というルールの中で、
新しい発明をするのである。
2016年01月20日
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