リライトをするとき、
あなたは原稿を見ながらやることだろう。
しかしこれは、うまいこと行くときと、
行かない時がある。
うまいこと行くときは、
微視的な直しだ。
「が」を「は」にしたほうがいいとか、
句読点の打ち方を変えるとか、
台詞の順を変えるとか、
シーンの順を変えるとかだ。
しかしこれは微視的な直しにはとてもよいが、
巨視的な直しや、根本的な直し、抜本的な直しには向かない。
大を見ずに小を見ているからである。
原稿を一切見ずにやるリライトも、あるということを覚えよう。
それは理想の状態を思い浮かべ、
そうなるためには現在をこう変えるべきである、
と、現在をあまり見ずに判断することである。
その判断を一度したうえで、
原稿を斜め読みする。
すると、ここのブロックをバッサリ落とすべき、
などの勇断が出来るのである。
ある要求を自分にする。
理想はこうであるべきだろうと。
それをそのまま実現できないとき、
「それってこういうことだよね?」と、
全く別のやり方で答えてみるとよい。
それは現在の原稿を、大分無視したものになる。
それが抜本的な直しというものだ。
理想はこうであるべき、というのは、
形ではなく、目的や意味で伝えるとよい。
形がこうあるべき、と原稿を睨んでしまうからである。
話が抽象的なので、分かりにくいと思う。
つまりは、そういう抽象思考をしないと、
目の前の原稿を細かく直すしか出来なくなる、
ということなのだ。
今書いている小説で、
とても気に入っていたワンシーン、
原稿用紙5枚ぐらいをバッサリ切った。
それは、起1起2伏で、原稿用紙4枚5枚4枚となっていた、
起2のシーンだった。
ここは起1伏だけにして、
起伏の揺さぶりに集中したほうが、
話が面白くなると思ったからだ。
(しかも起1より起2の方が気に入っているシーンで、
しかし起ぶりは起1のほうが大きかった)
これを、
全体を起伏にしようと思って、
原稿用紙5枚の文章を眺めていても、
3枚以下に縮めるのが精一杯だと思う。
結果、労多くして益少なしだ。
なかなか5枚バッサリは勇気がいる。
目の前の原稿を見ているとね。
目の前の原稿は、視界を近視眼にする。
全体を見るときは、原稿を見ずに、
頭の中の全体像を眺めるべきだ。
あなたは、原稿を見ずに考えるといい。
それってこういうことだよね?と。
切るだけではなく、足したり変更したりするのも同じだ。
その決断を先にしてから、
具体的な原稿で、あとで実現しよう。
2016年01月21日
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