監督なら分かるかも、の感覚の話をしてみる。
故市川崑監督のクランクアップの現場に、
ワイドショーかなにかのテレビカメラが入っていて、
女性レポーターが「終わりましたね!お疲れ様でした!」
と声をかけたら、
監督は「まだ半分だよ」と答えた。
多くの(100人ぐらいの)スタッフにとっては、
撮影終わりが現場終わりだが、
監督にとっては撮影終了なんて、
たかが折り返し点に過ぎない。
撮影は材料集めだ。
編集という暗室で、それらを窯変させるのである。
撮影→編集というループを何度もこなさないと、
その感覚は分からないかも知れない。
たとえば、アルバムを作る行為を考えよう。
100枚ぐらいの写真から、
「この冬にしたこと」というテーマで10枚をセレクトする、
ということを想像するとよい。
何順で並べるか(テーマは何か)、どの写真がベストとするか、
に頭を使うことを考えると、
編集という行為の意味が分かるかもしれない。
無限パターンがあり得る。
10枚と言ったけど、9枚や12枚の方が座りがいい、などのときもある。
その中でベストはなにか?
撮影は材料集めだ。
編集が、組み立てと意味を決める。
(台本通りに編集すれば、優秀な映画になるような、
優れた台本だらけとは限らない。
編集によって、少しでも良くすることは可能だ)
そして件の市川監督は、
台本通りに編集するつもりはなく、
何らかの工夫を試すつもりだったのだろう。
僕は、この撮影と編集の関係が、
執筆とリライトの関係に、とても似ていると思うのだ。
編集のコツは、
構成を見直すことと、
いかに生き生きした瞬間を見つけ、切り取り、繋ぐかといった、
巨視的な部分と微視的な部分を、
同時にやることである。
これが、リライトの感覚ととても近い。
リライトをする前に、
メモを取らず全体を通しで読み、
全体の感覚をつかみ、
思い出す限りのメモを取り、
あとは細かくやっていく、
という僕のやり方は、
まず一気見してから、細かく編集していく、
という編集論と、ほとんど同じことかも知れない。
この一行の台詞を言うべきかどうか、
この言葉を入れるべきかどうか、
なんて、殆ど編集だよね。
あるいは、
少しだけ言葉を切ってリズムをあげる、
逆に緩くしてテンポを下げる、
なんてのも編集にとても似ている。
微視的な直しが出来ていても、巨視的な直しに目が行きづらい、
というのも、編集に似ている気がする。
ということで、今原稿用紙279枚ぶんの、小説のリライトをやっています。
執筆と同時に前半リライトも同時進行していたので、
只今二周終えました。
三周か四周はしないと、なかなか編集は出来ないと思う。
小説って、まず一気見に時間がかかるよね。
(CMの一気見なんて15秒30秒だけど、
映画の一気見に二時間かかるのに、僕はびっくりした記憶がある。
小説なんて5、6時間かかり、さらにしんどい)
いつものことだけど、今やってることで思うことを、
この脚本論でよく書きます。
リライトが増えてるときは、大体リライトやってます。
2016年01月23日
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