2016年02月08日

デジタルは人を幸せにしない:「AもBも」を捨てるのが表現だ

遅ればせながら、HDR写真というものを見た。
適正絞りからプラマイ2の、3枚(プラマイを加えて5枚もあり)
の写真から、ハイとローのディテールを拾い、
実質のダイナミックレンジを増やす手法だ。

作例を見て、3歳児が描く絵かと思った。


絵を描くことや、文章を書くこと、
ストーリーをつくること、音楽を奏でること、
写真を撮ることは、
ひとつに意図を絞ることをいう。

じゃ白バックにリンゴだけ置けばいいのかと言うとそうではなく、
白バックの代わりに違うオブジェクトを置いたり、
照明を流し込んだりして、
ただ白バックにリンゴを置くだけよりも、よくしていくのが表現だ。
しかしリンゴが主であるならば、
違うオブジェクトも照明も、脇であり、
主より目立ってはいけない。


表現とは、主を決めることだ。
そして全ての脇を、主のためにコントロールすることだ。
主を引き立てる為に、逆をおいたり、並列にしたりするのだ。
あくまで、主のためである。

脇が主より目立つのは表現ではない。
ただの混沌である。
表現とは、整理である。


HDR写真は、ハイダイナミックレンジの略だ。

ダイナミックレンジというのは、
「うつる明るさの範囲」という意味である。
写真は、肉眼よりうつる明るさの範囲が狭い。
どういうことかというと、
見た目よりも、明るいところが白飛びし、
暗いところが黒くつぶれる。
写真を撮るという行為は、
どこを主にするか選ぶ行為であり、
主より白飛びするところを決め、
主より黒つぶれするところを決める行為だ。

その為に絞り値を決め、
明るい側に斜(ディフューズ)を入れてまろやかにしたり更に飛ばしたり、
暗い側に抑えライトを入れて持ち上げたり逆に遮蔽して潰しを増やしたり、
するのが撮影という行為である。

銀塩写真のときは、アナログだからやり直しが利かない。
現像行程で、焼きをコントロールして、
潰しや飛ばしを変えることは出来るが、
プリントは一枚限りのアナログだ。
(焼きを決めれば同じプリントは何枚も作れるが)


ハイダイナミックレンジというのは、
その行為を全て否定している。

そもそも適正絞りなんてのは存在しない。
アングルの中の何を主にするかで、
絞り値を変えるべきだ。
適正絞りと言われるのは、デジタル計測器がだした、
アングルの中の明るさの算術的平均値にすぎず、
撮るべきものの明るさのことではない。

明るく白飛びするところをうつるようにし、
(つまり絞って撮ったパーツからハイ情報を持ってきて適正絞りに合成)
黒つぶれするところをうつるようにする
(開けて撮ったパーツからロー情報を持ってきて合成する)。

それは、写真を撮るという行為の、
真逆の行為だ。

創作というのは、主を決めることであり、
その他の脇を捨てることである。

HDR写真は、全てを捨てない写真だ。
三歳児の描く絵、と最初に言ったのはそういうことである。
「ぜんぶほしい」という欲望を忠実に再現しているのである。


「ぜんぶほしい」は、表現ではない。
世界中の女全員が欲しい、はプロポーズではない。
他の女はいらない、お前だけが欲しい、がプロポーズである。

デジタルは人を幸せにしない。
捨てることを怖がらせ、
捨てる勇気を育てない。
一応全部とっとこう、ばかりになる。
あなたのスマホのアルバムは、そんな写真ばかりだろう。
それは、写真という表現ではない。
偶然うまいこと撮れた、ラッキーの記録に過ぎない。

デジタルは人を幸せにしない。
一応、は、表現ではない。
posted by おおおかとしひこ at 12:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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