更に続き。
敵に回すつもりはない。
仲良く共存するべきだとは思う。
敵だと思え、というのは、
我々が一次創作をするとき、
頭のなかに二次創作の方法論を忍ばせてはならない、
ということである。
作者の頭のなかどころか、
二次創作上がりがプロデューサーにいたりすると、
とても厄介だ。
こういう設定や性格で、などと指定して、
あとは何も考えない、ということがとてもよくあるからだ。
それが創作ではない、と批判しても、
無自覚のためそれは批判と分からないだろう。
そういう困った事態が、最近増えていると思う。
プロデューサーは書く人間ではない。
だとすれば任せるべきなのだが、
「ちょっと書いた経験がある」という浅い経験から、
下手な判断をすることがある。
それが二次創作的な方法論のときが、厄介なのである。
もしあなたがそういう事態に今後遭遇したら、
この辺の一連の記事をプリントアウトでもして、
一緒に議論するといいかもしれない。
さて、共同制作者との人間関係の問題は、
おいておこう。
我々の頭のなかを整理しよう。
二次創作の方法論が、
一次創作を侵食してダメにする理由。
それは、
「設定や性格が、既に好きかどうか」が前提になっていること。
(一次)創作というのは、
感情移入をさせなければならない。
そしてその感情移入とは、
これまで議論してきたように、
その主人公と関係ない、似ていない人をも、
すべての人を、感情移入させることが、第一条件であった。
そしてその条件とは、
全く自分とは関係ない人だが、
自分がもしこういう事態に陥った時も、
似たようなことを考え、似たようなことをするだろう、
と、観客が考え始めることであった。
それがない限り、感情移入は、すべての人がやるわけがない。
映画というのは、
そこに30分をかけるものである。
二次創作は、キャラが好きという前提で始めている。
だから、「設定や性格が好きだから感情移入する」という、
誤解から始まっているのである。
二次創作は、同好の士の集まりで取引されるものだ。
好き同士の間で取引されるものだ。
だから、「知らない人全員を感情移入させる」
ことが、ゼロで良いのである。
一方、(一次)創作というのは、
知らない人全員を感情移入させることが、
最初の、そして最難関の仕事といってよい。
二次創作の方法論では、それに太刀打ち出来ないのだ。
性格や設定から入るのは、二次創作の方法論だ。
もっと言えば、オリジナルの(一次)創作の方法論から見れば、
素人のやり方だ。
プロのドライバーと素人の運転ぐらい、
見ているところが違うのである。
(先程の共同制作者の問題で言えば、
プロのドライバーを雇っておいて、
素人が後部座席から指示をしたり、
あまつさえ助手席に座ってハンドルを奪うようなものだ。
昨今そういうプロデューサーが増えて、
結果邦画業界は壊滅の危機ではないだろうか)
二次創作の方法論しか分からない人に、
僕の主張が通るとは思えない。
このブログで披露しているやり方は、
それとは全く違うやり方である。
少なくとも、僕は二次創作のやり方を全否定するところから、
始めていることを、ここに断っておく。
世の中にある二次創作を否定は、しない。
ファンたちが楽しむ最高の娯楽のひとつだろうからだ。
ファンであり続けるのは、自由だ。
そのやり方を、プロフェッショナルに持ち込まない限り。
と、いうことで、
二つの糞作品、
ペプシ桃太郎のシリーズと、
今世紀最悪の映画のひとつSW7は、
二次創作の方法論で作られていることが、分析可能だ。
どちらも、全く知らない人が、
主人公桃太郎、レイに、感情移入出来るか?
という問いを立てれば、自ずと明らかである。
映像や音楽や世界観はすごいけど、
感情移入が皆無である。
映像や音楽や世界観が映画の楽しみか?
それは脇の楽しみである。
主な楽しみは、ストーリーの筈だ。
そしてここでは、そのストーリーの作り方について、議論を続けている。
2016年01月25日
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