2016年01月25日

むしろ、二次創作は一次創作の敵なのだ

更に続き。
敵に回すつもりはない。
仲良く共存するべきだとは思う。

敵だと思え、というのは、
我々が一次創作をするとき、
頭のなかに二次創作の方法論を忍ばせてはならない、
ということである。


作者の頭のなかどころか、
二次創作上がりがプロデューサーにいたりすると、
とても厄介だ。
こういう設定や性格で、などと指定して、
あとは何も考えない、ということがとてもよくあるからだ。
それが創作ではない、と批判しても、
無自覚のためそれは批判と分からないだろう。
そういう困った事態が、最近増えていると思う。

プロデューサーは書く人間ではない。
だとすれば任せるべきなのだが、
「ちょっと書いた経験がある」という浅い経験から、
下手な判断をすることがある。

それが二次創作的な方法論のときが、厄介なのである。
もしあなたがそういう事態に今後遭遇したら、
この辺の一連の記事をプリントアウトでもして、
一緒に議論するといいかもしれない。


さて、共同制作者との人間関係の問題は、
おいておこう。
我々の頭のなかを整理しよう。

二次創作の方法論が、
一次創作を侵食してダメにする理由。

それは、
「設定や性格が、既に好きかどうか」が前提になっていること。

(一次)創作というのは、
感情移入をさせなければならない。
そしてその感情移入とは、
これまで議論してきたように、
その主人公と関係ない、似ていない人をも、
すべての人を、感情移入させることが、第一条件であった。

そしてその条件とは、
全く自分とは関係ない人だが、
自分がもしこういう事態に陥った時も、
似たようなことを考え、似たようなことをするだろう、
と、観客が考え始めることであった。

それがない限り、感情移入は、すべての人がやるわけがない。

映画というのは、
そこに30分をかけるものである。

二次創作は、キャラが好きという前提で始めている。
だから、「設定や性格が好きだから感情移入する」という、
誤解から始まっているのである。

二次創作は、同好の士の集まりで取引されるものだ。
好き同士の間で取引されるものだ。
だから、「知らない人全員を感情移入させる」
ことが、ゼロで良いのである。

一方、(一次)創作というのは、
知らない人全員を感情移入させることが、
最初の、そして最難関の仕事といってよい。

二次創作の方法論では、それに太刀打ち出来ないのだ。



性格や設定から入るのは、二次創作の方法論だ。
もっと言えば、オリジナルの(一次)創作の方法論から見れば、
素人のやり方だ。
プロのドライバーと素人の運転ぐらい、
見ているところが違うのである。
(先程の共同制作者の問題で言えば、
プロのドライバーを雇っておいて、
素人が後部座席から指示をしたり、
あまつさえ助手席に座ってハンドルを奪うようなものだ。
昨今そういうプロデューサーが増えて、
結果邦画業界は壊滅の危機ではないだろうか)

二次創作の方法論しか分からない人に、
僕の主張が通るとは思えない。
このブログで披露しているやり方は、
それとは全く違うやり方である。
少なくとも、僕は二次創作のやり方を全否定するところから、
始めていることを、ここに断っておく。


世の中にある二次創作を否定は、しない。
ファンたちが楽しむ最高の娯楽のひとつだろうからだ。
ファンであり続けるのは、自由だ。
そのやり方を、プロフェッショナルに持ち込まない限り。

と、いうことで、
二つの糞作品、
ペプシ桃太郎のシリーズと、
今世紀最悪の映画のひとつSW7は、
二次創作の方法論で作られていることが、分析可能だ。
どちらも、全く知らない人が、
主人公桃太郎、レイに、感情移入出来るか?
という問いを立てれば、自ずと明らかである。
映像や音楽や世界観はすごいけど、
感情移入が皆無である。

映像や音楽や世界観が映画の楽しみか?
それは脇の楽しみである。
主な楽しみは、ストーリーの筈だ。
そしてここでは、そのストーリーの作り方について、議論を続けている。
posted by おおおかとしひこ at 12:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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