更に続けよう。
不可逆に状況がなってしまうのは、
誰のせいか?
主人公であるべきだ。
勿論、他人からのものもある。
誰かが誰かに殺される、
不可抗力の事故や天災。
ここまで取り返しのつかないものでない、
たとえば悪意や善意や偶発的なものによるもの。
しかしこれらを受けて、
後戻り出来ない状況をただ流されている
(リアクションばかりしている)のは、
ただのジェロニモにすぎない。
映画の主人公というのは、
これらの状況に、
自分の意志で行動を起こさなければならない。
状況に対して、
やっぱやめた、と可逆的に引っ込める、
いつでも元に戻れる安全策は、
面白くない。
ドキドキしないからだ。
好きな子がいるのなら、
ごはんに行こうよとか、映画に行こうよとかの、
友人にも戻れるレベルの行動では、
ドキドキしない。
好きだと告白する、付き合ってくださいとアクションする、
後戻り出来ない行動を起こさなければ、
その先のドキドキもないのである。
これが他人による不可逆な行動、
つまり「告白される」ばかりやられるのが、
メアリースーだ。
逆に言うと、映画的ストーリーとは、
自分で出発をした後戻り出来ない行動を、
最終的に成功させて終わるまでの、
ドキドキ(不安と期待)のことである。
それに我々は感情移入し、
一喜一憂するのである。
リア充でない人間は、ここのリアリティーがない。
だから男が女を口説く話ではなく、
何故かカワイイ子が告白してくれる話しか書けないのだ。
方法はふたつ。
リア充になり、そのリアリティーを書けるようになる。
または、
自分が今まで成功してきたことについて、
そのまま書くか、それを別の世界に置き換えて書く。
一番あり得るのは後者だ。
たとえば書道を習っていてあったことを、
ボクシング映画に置き換えて書くことは、
概ね可能だろう。
勿論ボクシングの取材は必要だけど、
そこで起こる人間の本質については、
そう変わらない筈だ。
(そして何らかの共通点を見つけることだろう。
感情移入も同じ構造だったことを思いだそう。
つまり、他人の行動や反応について、
自分と同じものを見つけたとき、人は楽しくなってくる)
波紋を起こせ。
(架空の)人間関係や、世界に対してだ。
波紋は起こされるし、起こす。
そのやり取り、
その不可逆な人間関係や思いや出来事や行動や決定が、
物語である。
2016年01月26日
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