映画と小説の違いは、映像のあるなしではない。
地の文が大きな違いだ。
それにより、表現されるストーリーの本質すら異なってくる。
映像は三人称表現であり、
文章は三人称表現と、一人称表現を混在させてよい。
(原則は混在させないが、現代では認めている)
これがストーリーの本質を異ならせている。
短い例を仕入れたので議論してみよう。
現代文学のフロンティアのひとつ、ラノベから。
「艦隊これくしょん-艦これ-7 陽炎、抜錨します!」築地俊彦
を例に。
まずはこれが原文(それぞれクリックで拡大します。
読みにくくてすいません)。
ここから、純粋に三人称描写のみを残してみる。
それ以外は、説明文と一人称描写だ。
説明文を赤、一人称描写を青にして原文を色分けしてみよう。
さて、これで色々なことが分かるだろう。
ついでに、三人称+説明文。
三人称+一人称。
三人称だけだと、内容がスカスカになってしまったね。
ただ目の前でアクションが繰り広げられるだけになってしまった。
魚雷砲で殴るとかのビジュアルアイデアはあるものの、
ただのカンフーアクションと大して差がない。
ここに、地の文の、映像にない役割を見ることが出来る。
説明文は、オンタイムで進行していては間に合わない部分だ。
一部映像の凄さで押し切れる部分もあるが、
オンタイムで進んでいる事項に対して、
別の時空から説明を加えている。
映像ではこれは出来ない。
同時進行で説明するか、事前に説明を入れておいてアクションに突入するか、
勢いで省略するかだ。
また、一人称描写を見てみよう。
これも映像では出来ないことだ。
心の声で言うのはダサいよね。
(「わたしの優しくない先輩」という失敗作を見るといい)
一部台詞に変換出来る部分もあるけど、
ラスト付近の「この世は闇だ暗黒だ」とか
「お前らは一人残らず、あたしの人生の敷石だ」
なんてのは、一人称ならではだ。
魚雷を振り回しながらタンカを切ってもいいけど、
アクションのリズムが崩れるだろう。
(この発言を周囲が聞いたかどうかがその後の反応に関わるかどうか、
というのもある)
小説の地の文は、
今目の前に起こっていることに、
今目の前に起こっていること「以上」に、
意味を与えることが出来る。
目の前で起こっているアクションが、
どういう意味があるかを一人称や説明文が決めるのである。
もう少し考えを深めると、
目の前で起こっていることに対して、
別の意味を地の文で与えることが出来る。
更に言うと、目の前で起こっていることと、
意味を全然変えることも可能だろう。
つまり、地の文が主で、起こっていることは従だ。
逆に、映像では、
起こっていることが主であり、全てだ。
カンフーアクションと台詞しか表現手段がない。
「それだけで語られる意味」しか語れない。
(せいぜいこの場面では、こういう強さであるとか、
強さの誇示とか、性格的な部分だろう)
だから映像では、語るもの(台詞や動作)で、
「別のことを指し示す」ことをするのである。
それは、事前にそういう文脈を作っておかなければならない。
今回の陽炎の思いを語るのがメインだとすれば、
どこかで、「あたしの人生の敷石なのよ」と誰かに語るシーンを事前に用意し、
それが魚雷であることを象徴しておいて、
「魚雷を振り回す」ことがそのことを指し示すように、
つくらなければならない。
脚本の難しさとは、小説以上に、
この象徴表現(何かで別の何かを指し示す)がうまいことと、
リアルタイムで進行することの、
バランスを取らなければならないことに起因するのだ。
極論する。
小説は、目の前に起こっているのは、何でもいい。
地の文で、別のこと(意味)を書いてもいい。そっちがメインだ。
映画は、目の前に起こっていることから、
その意味を読み取れるように、つくらなければならない。
似たような「物語表現の形式」に見えて、
やっていることは多分真逆に近い。
サマリー。
意味の部分のみ。
目の前に見えていることのみ。
2016年01月27日
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