短編を沢山書くことを、僕は推奨している。
5分(5枚)でも15でも30でもいい。
とにかく長編じゃない、短編だ。
数をこなせばこなすほど、初期の頃は上手くなる。
だから若いうちになるべく数をこなすべきだ。
色々なパターンの、序盤中盤終盤を書いたり、
色々なパターンの、キャラクターや人間関係を書いたり、
色々なパターンの、スタンダードや特殊に触れられるので、
とてもよい。
ところで、短編の豊富な経験でしか積めないものがある。
省略の練りである。
物語というのは、世界全部を記述することは出来ない。
全ての芸術でもそうだ。
だから、ある部分を切り取り、それを作品の全宇宙に定義する。
短編は、その宇宙がごく小さいものをいう。
だから、短編では、余計なものを入れずに凝縮する。
凝縮するということは、殆どは捨てる判断をするということ。
つまり、捨てることで残すことを沢山することである。
俳句にたとえれば話は分かりやすいか。
色んな思いを575に切り詰めていく。
長編小説なみにあったことを、
たった17文字に凝縮する。
一文字二文字の闘いをしながら、
どこからどこまでを切り取り、
何を捨て、何を残すかを、決めなければならない。
さて。
これが、「17文字だから」やらなければならないことか?
違う。
これは、大長編小説だろうが劇場映画だろうが、
やらなければならないのである。
無駄を落とし、本質だけを残して、
それだけを中心に据え、
他を脇にして、主従のバランスを整えることは、
短編だけでなく長編でも同じである。
むしろ、長編でやらない理由はない。
長編こそ、話がややこしくなりがちだからだ。
省略や切り落としに慣れていない人ほど、
今まで長編をやったことない人ほど、
「なんでもかんでも入れようとする」傾向がある。
「短いが為に入れられなかった、
あれやこれを入れたい」という欲望があるのだ。
しかしそれは雑ノイズであるということに、
どれだけ客観的になれるだろうか?
短編のときは、字数制限という物理的要因によって、
「本質的なことだけを残して凝縮する」ことをしていたくせに、
長編になると急にこれをやらなくなってしまうのだ。
「長いからなんでも入る」と思うのだろう。
それは、
狭い茶室なら整理整頓が効いていて機能的だった部屋が、
100畳の部屋に越した途端、
なんでもかんでも置いて、
ごちゃごちゃになってしまい、
使いにくくなった部屋のようなものだ。
100畳のダイナミックさを使えず、
雑然とノイズだらけになってしまう。
100畳のダイナミズムを使うには、
整理することだ。
系統立てて並べ替え、
空白をつくり、
いらないものは捨てて、
骨をハッキリさせることである。
それは、捨てることで残すことを沢山やった経験がなければ、
うまくいかないだろう。
15秒30秒をやってきた人が、
急に3分や10分をやると、
全然ポイントが絞れない、ぼんやりとごちゃごちゃしたものしか、
作れなくなることが多い。
CM出身の映画監督もそうだ。
あれもこれもやりたくて、それをごった煮にしたがるのだ。
ごった煮は、小宇宙をなさない。
どの小宇宙も、その世界で美しい構造をしている、
すなわち無駄がなく本質だけが残されているべきだ。
今、原稿用紙280枚ぐらい(11万字)の長編小説を書いている。
三年前くらいに一度完成させたもののリライトだ。
リライトは一応終えたが、
三年前に完成させた第一バージョンの、
美味しい要素を溶け込ませたい誘惑にかられ、
今四苦八苦している。
なんでもかんでも入れようとする自分との闘いをはじめた。
何を拾って溶け込ませ、
何を捨てるべきかの判断をやっていて、
ああ、これは経験豊富でないと、
絶対に間違うな、と感じた。
なんでもかんでも入らない。
入るのは、本質的なものだけだ。
他はノイズだ。
ノイズならまだいい。本質を濁す、害悪にすらなる。
その長編の本質は何か?を、
うまく捉えていないと、
なんでもかんでも入れたくなって、
キメラが出来上がっておしまいだ。
そんなごにゃごにゃのものが、面白くて名作な訳がない。
精々、珍作や力作レベルであろう。
人を楽しませ、感動させ、人生を変えるほどの名作には、
そんなややこしいものは微塵もなく、
本質に関することだけが残され、
その他は注意深く捨てられているはずである。
名作は整理されている。
どんなに長くとも、茶室のように。
捨てよう。
捨てることで残すことを、沢山練習しよう。
それには、短編の沢山の練習が生きる。
2016年01月28日
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