知り合いの役者さんに聞いた話。
その人は高校演劇部に教えることがあるらしいのだが、
「登場人物を、ツンデレなどの漫画的なテンプレに
当てはめようとする」ことについて、
嘆いていた。
漫画的な人物を演じる場合での話ではない。
役と役者を結ぶ紐帯を作り上げるとき、
ベースになるのは「自分の感覚」である。
自分の経験をもとに、役との共通点や違う点を炙り出す。
ところが、
その感覚に、自分の感覚ではなく、
「漫画で見た経験」をベースにしてしまう人が、多いという。
まあ、気持ちは分からないではない。
そもそもアニメや漫画やラノベが好きで、
つまりは空想の物語が好きで、
演劇部がその現実的に一番近い世界だと思い、
たまたま演劇部に入っていることが、
一番ありそうだからだ。
演劇そのものの面白さに心酔しているわけではなく、
何となく似た世界として、演劇に触れている可能性が高い。
そういう人たちは、
人生経験よりも、漫画やアニメやラノベやゲームの中で、
過ごした時間のほうが長い。
(俺もかつてはそうだったと思う)
そういう人たちに、
人生経験をもとにして、なんて言っても無駄だ。
彼らは、現実よりも架空に生きた時間のほうが長いからだ。
さて、これは、マニアがクリエイターにはなれない、
ということと関係がある。
クリエイターとは、人生経験がベースになるべきだ。
何故なら、受け手は、現実の人生を生きている人たちだからだ。
架空世界をベースに架空世界を作ったら、
ただの劣化である。
(もっとも、受け手が架空世界をベースにした架空を楽しむように、
アニメの受け手の世界はシュリンクしているけれど)
マニアが作ったものは、クリエイターが作ったものに叶わない。
ディテールはうまくても、
芯になるものがなく、新しくないからである。
これは、役者だろうが、脚本家だろうが、監督だろうが、
同じだと思う。
僕らは、映画に詳しいマニアから出発しているかも知れない。
漫画やアニメやラノベやゲームや、演劇やコントや落語に、
出自を持つ人もいるだろう。
しかし、そのマニアな知識は、作ることには役に立たない。
判断や批評に役立つことはある。
作るときは、自分の人生経験がベースになるべきだ。
つまり、あなたは映画よりも、アニメや漫画よりも、
人生に詳しくなくてはならない。
これはほとんど、
寺山修司の「書を捨てよ町へ出よう」と同じことを言っている。
実は、沢山のマニアな知識は、
初心者クリエイターの邪魔をする。
自分の作り上げつつあるものが、
○○より劣るとか、△△に似てるとかを、
判断してしまうからである。
真似してニコニコしているレベルの初心者ならばそれもよしだが、
それを離れ、自分独自の表現を探せば探すほど、
○○や△△が邪魔をしてくるのだ。
そうなると、自分のオリジナル、
つまり、自分の人生経験しか拠り所がない。
そこを充実させない限り、オリジナルは書けないのである。
人生経験とは何だろう。
映画とは冒険であった。
つまり、リアルで冒険をすればいいのだ。
山にのぼったり川下りをしてもいい。
好きだった人に告白をしてもいい。
言えなかったことを誰かについに言ってもいい。
格闘技を習ってもいい。
風俗の写真指名で悩んで、これだと突っ込んでもいい。
裏町に関係を作ってもいい。
政治に関わってもいい。
博打をしてみてもいい。
嘘をついてもいい。
知らない飲み屋に入る、行ったことない所へ行くのもいい。
何でもいい。
時々、冒険をしよう。
一人でもいいし、複数でもいい。
飲む打つ買うは芸の肥やし、というのは、
それが比較的リスクが少なく経験できる、
日常の隣にある冒険だからである。
つまりは、自分でしてない冒険を、
借りてきて演じるという感じに、
冒頭の役者さんは、困っているのである。
感情移入とは、全く関係ない人物に、
何かの共通点を見つけた時に起こる。
それは髪型が似ているとかいう外見的なことではなく、
「似たようなことが自分にもあった」と思うことで起こる。
つまりは、人生経験の共通点、ということだ。
それは山にのぼったりした経験が、
風俗に突撃するときでも生きる、
ようなことと同じで、
全然ガワと関係ない部分での抽象的なところで、
共通点を見つけることで、起こるのである。
2016年02月01日
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