TIPSみたいなもんだが。
孤高の戦士は、大抵作者の投影である。
めちゃくちゃカッコいい登場と活躍をし、
颯爽と去って行くと相場が決まっている。
(てんぐ探偵でいえば、飛天僧正)
風魔の小次郎では、飛鳥武蔵の役どころだろう。
大抵は無口で内面が見えず、
中二病を炸裂させやすい、
悲劇の運命を背負わせやすい、
オイシイキャラである。
さて、孤高の戦士を二人以上にしてはいけない。
孤高の戦士の特別感が失われるということがひとつ。
さらに大事なことは、
お話とはコミュニケーションで進むということを、
忘れてはならないことだ。
平たく言うと、
孤高の戦士同士が会話出来ないのである。
「…」
「…」
では、話が進まないではないか。
物語というのは変化である。
孤高の戦士は、顔色を変えてはいけない。
内面を見せてはいけない。だから変化をしてはいけない。
つまり、人々の変化という物語の外にいるのだ。
(その外にいる感じがカッコイイんだけどね)
代表的な悪い例を。
原作「風魔の小次郎」の聖剣戦争編。
小次郎サイドの仲間として、
傭兵伊達総司(紅蓮剣)、
4000年の眠りから覚めた謎の男死牙馬(白朧剣)、
傭兵(引退)飛鳥武蔵(黄金剣)の、
三人の孤高の戦士が登場する。
これがよろしくなかった。
勿論、孤高の戦士たちがただ闘うというストイックさも、
聖剣戦争編の魅力ではあったが、
それは最初だけで、どんどん飽きてくるのである。
僕が原作から心が離れたのが、死牙馬戦だった。
孤高の戦士のはずが、ぐわああーっとか言ってるのが気持ち悪かったのだ。
なんだ人間じゃん、と、期待が削がれたことを覚えている。
それはどういうことかというと、
孤高の戦士たちが人間でなかったことが、
原因だと思う。
前作リンかけの5vs5バトルでは、
志那虎も、河合も、人間的だった。
志那虎=死牙馬、河合=伊達というアナロジーはあるかも知れないが、
志那虎と河合の間に何かかけあいがあり、
石松が中心になって高嶺ともしゃべり、
それぞれの変化をしていたはずだ。
しゃべるだけではなく、実際に拳を交えていたのも大きいか。
剣崎一人が彼らのなかで孤高の戦士の役だった。
孤高の戦士たちは、孤高の戦士ゆえに、
なんの交流もない非人間であり、
それゆえに、人間がするべき物語に、
聖剣戦争はならなかったのである。
小次郎と竜魔以外に感情移入がしづらいのは、
恐らくそういうことだ。
(勿論実写版聖剣戦争があれば、そこを改良してゆくべきだと、
考えている)
孤高の戦士を初めて意識したのは、いつだったかな。
アニメ版「幻魔大戦」のベガ、
999シリーズに出てくるときのキャプテンハーロック、
「機動戦士ガンダム」のスレッガーロウ、
「超電子バイオマン」のバイオハンターシルバ、
ゲーム「スト2シリーズ」の豪鬼あたりかなあ。
全部中二病だね。
ガンダムのシャアも、ある意味孤高の戦士だ。
男はそれに、しびれるほどの憧れを持つのかも知れない。
ということで、
孤高の戦士は主役にしない、二人以上にしないこと。
2016年02月05日
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