2016年02月05日

「孤高の戦士」は一人まで!

TIPSみたいなもんだが。


孤高の戦士は、大抵作者の投影である。
めちゃくちゃカッコいい登場と活躍をし、
颯爽と去って行くと相場が決まっている。
(てんぐ探偵でいえば、飛天僧正)
風魔の小次郎では、飛鳥武蔵の役どころだろう。

大抵は無口で内面が見えず、
中二病を炸裂させやすい、
悲劇の運命を背負わせやすい、
オイシイキャラである。


さて、孤高の戦士を二人以上にしてはいけない。
孤高の戦士の特別感が失われるということがひとつ。

さらに大事なことは、
お話とはコミュニケーションで進むということを、
忘れてはならないことだ。

平たく言うと、
孤高の戦士同士が会話出来ないのである。
「…」
「…」
では、話が進まないではないか。

物語というのは変化である。
孤高の戦士は、顔色を変えてはいけない。
内面を見せてはいけない。だから変化をしてはいけない。
つまり、人々の変化という物語の外にいるのだ。
(その外にいる感じがカッコイイんだけどね)

代表的な悪い例を。
原作「風魔の小次郎」の聖剣戦争編。

小次郎サイドの仲間として、
傭兵伊達総司(紅蓮剣)、
4000年の眠りから覚めた謎の男死牙馬(白朧剣)、
傭兵(引退)飛鳥武蔵(黄金剣)の、
三人の孤高の戦士が登場する。
これがよろしくなかった。

勿論、孤高の戦士たちがただ闘うというストイックさも、
聖剣戦争編の魅力ではあったが、
それは最初だけで、どんどん飽きてくるのである。

僕が原作から心が離れたのが、死牙馬戦だった。
孤高の戦士のはずが、ぐわああーっとか言ってるのが気持ち悪かったのだ。
なんだ人間じゃん、と、期待が削がれたことを覚えている。

それはどういうことかというと、
孤高の戦士たちが人間でなかったことが、
原因だと思う。
前作リンかけの5vs5バトルでは、
志那虎も、河合も、人間的だった。
志那虎=死牙馬、河合=伊達というアナロジーはあるかも知れないが、
志那虎と河合の間に何かかけあいがあり、
石松が中心になって高嶺ともしゃべり、
それぞれの変化をしていたはずだ。
しゃべるだけではなく、実際に拳を交えていたのも大きいか。
剣崎一人が彼らのなかで孤高の戦士の役だった。


孤高の戦士たちは、孤高の戦士ゆえに、
なんの交流もない非人間であり、
それゆえに、人間がするべき物語に、
聖剣戦争はならなかったのである。

小次郎と竜魔以外に感情移入がしづらいのは、
恐らくそういうことだ。
(勿論実写版聖剣戦争があれば、そこを改良してゆくべきだと、
考えている)



孤高の戦士を初めて意識したのは、いつだったかな。
アニメ版「幻魔大戦」のベガ、
999シリーズに出てくるときのキャプテンハーロック、
「機動戦士ガンダム」のスレッガーロウ、
「超電子バイオマン」のバイオハンターシルバ、
ゲーム「スト2シリーズ」の豪鬼あたりかなあ。
全部中二病だね。

ガンダムのシャアも、ある意味孤高の戦士だ。
男はそれに、しびれるほどの憧れを持つのかも知れない。


ということで、
孤高の戦士は主役にしない、二人以上にしないこと。
posted by おおおかとしひこ at 14:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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