物語の反対語を、僕はぼっちと定義しよう。
ストーリーとはコンフリクトだ。
つまり、他人との衝突の結果、
どう決着がついたかを描く(変化)。
他人との衝突は、
善対悪や、
殺人犯対少年探偵団から、
お局OL対新人やら、
おかんと俺やら、
あの子と俺やら、
友達同士やら、
電車の痴漢と被害者と冤罪の男から、
転校生とクラスメイトなど、
なんでもある。
人のいるところに問題が生まれ、衝突が必ずある。
うまいこといっている集団にストーリーはない。
異質な人たちがたまたまその場にいることによって、
ストーリーは発生する。
つまりストーリーとは、お互いの不快からはじまる。
ぼっちにはこれがない。
他人との触れ合いがないから、
あるいは避けているからぼっちなのだが。
だからぼっちは、原理上ストーリーが発生しない。
最近、一人言を延々言うCMが増えた。
まるでツィッターの呟きのように、
一人言を垂れ流している。
それはぼっちのやることだ。
ぼっちは、自分の思考しかない。
自分の見聞きしたことの記録や、そこで思ったことの羅列だ。
それは日記であり、物語ではない。
(元々日本には日記文学というジャンルがある。
これは物語ではない。正確に言うと、
他人との衝突や触れ合いを描いた部分だけ物語で、
一人で思ったことを書いた部分は日記である)
だから、ぼっちは、物語ではない。
ストーリー作りをたしなもうとする人は、
リアルぼっちか、ぼっち気味の人が多いと思う。
莫大な時間が創作には必要で、
毎日ウェーイとやってては原稿が終わらないからである。
だから、ついついぼっちの自分を反映させてしまう。
それ以外のリア充たちの人生をよく知らないこともあるだろう。
それがメアリースーになり、
窓辺系になることは、
これまで散々指摘してきた。
極論する。
ぼっちの作者が、リア充の人物の衝突と結末を書くのが、物語である。
ぼっちだろうがぼっちでなかろうが、
人間が、人間関係がどのようになっているか分からなければ、
物語(人と人の衝突)など書けない。
想像もつかないだろうし、リアリティーもないだろう。
人間をぼっちとリア充に区分けすることが、
既に人間を浅く見ていることになる。
ウェーイとやってる奴は、
そうしないとぼっちになる転落を恐れてウェーイとやってるものだ。
ぼっちはぼっちで、友達を作りたいが色々な自意識が邪魔することを、
知っているだろう。
リア充もぼっちも、実際のところ紙一重だ。
紙一重と思うほど、ぼっちとリア充の裏を知らないかもしれない。
つまり、大人になればなるほど、友達を作るのは難しくなる。
衝突が起こり、それを回避しようとするからである。
物語は、そこで起こる人と人の衝突を描く。
衝突を避けようとしているのに?
物語では、何故人が衝突するのか?
動機があるからだ。
その動機を実現しようと思ったら、
どうしたって衝突は避けられないのだ。
(衝突を避ける程度の「やらなくてもいいや」は、
物語においては動機に数えない)
そこで起こる揉め事をきちんと描き、
うまく収める様を、リアリティー溢れるように、
見事に描かなければならない。
それは、単なるぼっちには難しいと思う。
孤高の戦士は、本隊にいないからカッコイイのだが、
本隊の揉め事に参加していないという意味でぼっちだ。
だから孤高の戦士は物語ではない。
最近のCMは、一人言が増えた。
見た目には、絡み芝居がなくなり、
いい感じの絵にナレーションを載せる。
それは、世の中がぼっちばかりになった証拠だと僕は考えている。
もっと中国人や韓国人みたいに、衝突していいんじゃないか?
昭和はそうだったぜ?
ここはアジアなんだぜ?
2016年02月07日
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