2016年02月07日

孤高の戦士とは、ぼっちのことだ

物語の反対語を、僕はぼっちと定義しよう。


ストーリーとはコンフリクトだ。
つまり、他人との衝突の結果、
どう決着がついたかを描く(変化)。

他人との衝突は、
善対悪や、
殺人犯対少年探偵団から、
お局OL対新人やら、
おかんと俺やら、
あの子と俺やら、
友達同士やら、
電車の痴漢と被害者と冤罪の男から、
転校生とクラスメイトなど、
なんでもある。

人のいるところに問題が生まれ、衝突が必ずある。
うまいこといっている集団にストーリーはない。
異質な人たちがたまたまその場にいることによって、
ストーリーは発生する。
つまりストーリーとは、お互いの不快からはじまる。


ぼっちにはこれがない。
他人との触れ合いがないから、
あるいは避けているからぼっちなのだが。
だからぼっちは、原理上ストーリーが発生しない。

最近、一人言を延々言うCMが増えた。
まるでツィッターの呟きのように、
一人言を垂れ流している。
それはぼっちのやることだ。

ぼっちは、自分の思考しかない。
自分の見聞きしたことの記録や、そこで思ったことの羅列だ。
それは日記であり、物語ではない。
(元々日本には日記文学というジャンルがある。
これは物語ではない。正確に言うと、
他人との衝突や触れ合いを描いた部分だけ物語で、
一人で思ったことを書いた部分は日記である)

だから、ぼっちは、物語ではない。


ストーリー作りをたしなもうとする人は、
リアルぼっちか、ぼっち気味の人が多いと思う。
莫大な時間が創作には必要で、
毎日ウェーイとやってては原稿が終わらないからである。

だから、ついついぼっちの自分を反映させてしまう。
それ以外のリア充たちの人生をよく知らないこともあるだろう。
それがメアリースーになり、
窓辺系になることは、
これまで散々指摘してきた。


極論する。
ぼっちの作者が、リア充の人物の衝突と結末を書くのが、物語である。


ぼっちだろうがぼっちでなかろうが、
人間が、人間関係がどのようになっているか分からなければ、
物語(人と人の衝突)など書けない。
想像もつかないだろうし、リアリティーもないだろう。

人間をぼっちとリア充に区分けすることが、
既に人間を浅く見ていることになる。
ウェーイとやってる奴は、
そうしないとぼっちになる転落を恐れてウェーイとやってるものだ。
ぼっちはぼっちで、友達を作りたいが色々な自意識が邪魔することを、
知っているだろう。
リア充もぼっちも、実際のところ紙一重だ。
紙一重と思うほど、ぼっちとリア充の裏を知らないかもしれない。
つまり、大人になればなるほど、友達を作るのは難しくなる。
衝突が起こり、それを回避しようとするからである。

物語は、そこで起こる人と人の衝突を描く。
衝突を避けようとしているのに?
物語では、何故人が衝突するのか?
動機があるからだ。
その動機を実現しようと思ったら、
どうしたって衝突は避けられないのだ。
(衝突を避ける程度の「やらなくてもいいや」は、
物語においては動機に数えない)
そこで起こる揉め事をきちんと描き、
うまく収める様を、リアリティー溢れるように、
見事に描かなければならない。

それは、単なるぼっちには難しいと思う。


孤高の戦士は、本隊にいないからカッコイイのだが、
本隊の揉め事に参加していないという意味でぼっちだ。
だから孤高の戦士は物語ではない。


最近のCMは、一人言が増えた。
見た目には、絡み芝居がなくなり、
いい感じの絵にナレーションを載せる。
それは、世の中がぼっちばかりになった証拠だと僕は考えている。
もっと中国人や韓国人みたいに、衝突していいんじゃないか?
昭和はそうだったぜ?
ここはアジアなんだぜ?
posted by おおおかとしひこ at 12:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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