大体どんなアプリでも、ズーム機能がついている。
何かを書くエディタ、
たとえばワードやエクセルやフォトショやイラレや、
編集機(アビッドやプレミア)ですら。
僕は、これが人を学習から遠ざけていると感じている。
空間把握能力という「体感覚で覚えること」について。
原稿用紙に小説やエッセイを書く、
というアナログを考えよう。
初心者はいざ知らず、
プロならば、
いま中盤だな、とか、そろそろまとめなきゃな、
ということを自覚しながら書くものだ。
それは、紙という枠があるからである。
紙の何%を書いたか無意識に見ていて、
それを都度内容を調節しながら書くものである。
今の自分の筆のスピードを見ながら、
残りを把握していて、
内容をコントロールしながら、
きっちり字数におさめる。
プロなら一発で出来るものである。
僕は車庫入れの感覚にたとえている。
自分の幅と空間を把握して、
幅に自分をうまく調節「しながら」おさめるのだ。
しながら、というのがポイントで、
下手くそは、「あとで」調節することを考える。
容易に想像つくように、
あとで四苦八苦して調節しなおすことと、
一発で調節済みの原稿では、
後者のほうが効率がよく、
従って拘束時間が少なく、
沢山の原稿が書ける。
つまりプロ向きである。
これが、ワードで書くことを想定してみよう。
僕はワードの文字の大きさにいつも慣れず(小さすぎる)、
大抵拡大して使う。
そうすると、紙の端(一画面の端)が見えなくなる。
見えなくなるから、
自分がどれだけ書いたのか分からなくなる。
分からないので、書き終えたあとに、
ズームを100%や50%にして、俯瞰したりする。
一見ズームがあったほうが俯瞰がすぐ出来るのでは、
と思うがそうではないのだ。
俯瞰は、目でやるのではないからだ。
原稿用紙に書くとき、
我々は目で全体を見るのではない。
手や体の位置や、テーブルとの関係や、
経過時間感覚などの、複合的な視覚以外の感覚をも使って、
原稿を把握している。
たとえば原稿用紙○枚をひっつかんでテーブルに置くときですら、
全体空間把握がそこで行われているはずだ。
(僕は原稿用紙を使っていないが、
A4白紙を使っているので、厚みで大体の全体分量を考える)
イチローのルーチンを思い出してみよう。
両足を踏みしめ、袖をつかみ、バットを前に立てる。
これは、同じことをやって精神に落ち着きを与える、
儀式的効果だけではない。
バッターボックスの大きさや、ピッチャーまでの距離や、
野球場の広さを、視覚以外の感覚で捉えている、
つまり空間把握をしている行為である。
僕がキーボードで長文を叩くルーチンがあって、
ピアニストみたいにキーボードをちゃらっと横に撫でるのだ。
無意識にやっていたのだが、
これが、キーボード全体の大きさを把握して、
ブラインドタッチの指の間隔をこれに合わせている行為だと、
最近気づいた。
つまり、僕の言いたいことはもうお分かりだろう。
視覚だけでしかコミュニケーション出来ない、
デジタル物書きツールは、
役に立たない。
正確に言うと、体感覚としてものづくりすることを、
学習できない。
アナログ派がデジタルにコンバートするのは良いかもだが、
デジタルネイティブだと、
ものづくりを体感覚として出来ないだろう。
体感覚がないものづくりはあり得るか?
僕はないと考えている。
水槽の脳という思考実験がある。
全ての神経信号をシミュレーションできれば、
水槽の中に脳だけ浮かせておけば、
体があって動いていると錯覚させられるか?
というものだ。
僕はこの議論の前提、全ての体感覚をシミュレーションできる、
が間違っていると考えている。
単体の物理計算だけなら間に合うかも知れないが、
体感覚というのは、
周囲の世界との相互作用だからだ。
たとえば草に寝転んだとき、草をちぎってみたり、
誰かとすわって手を握ったり、拒否する間隔を肌で感じたりしないと、
相互作用してるとは言えない。
つまり、ひとつの水槽の脳では足らず、
複数の水槽の脳が必要な気がしている。
僕はみうらじゅんの、
「エアセックス世界選手権(童貞部門)」が大好きで、
我々の予想に反して、最も面白かったのが、
「童貞は挿入しながらおっぱいを揉むとき、
あり得ない位置におっぱいを持ってくる」という、
体感覚の無さであった。
つまり、唯脳主義は、
体感覚のリアリティーがないのである。
デジタルは人を幸せにしない。
我々は、この世界で、生きて死ぬ。
デジタルはそれから解放したか?
不老不死じゃないよね、おれたち。
だから電子書籍も、流行らないと僕は思っている。
それよりも出版不況のほうがでかくて、
実質置き換えは起こるかも知れないが。
2016年02月12日
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