そう書けるような話をつくろう。
その方が楽しいからだ。
そう書いて納得するほどの、
絡みを作れていればよい。
運命とは何かについて、ここでは突っ込まない。
けれど、運命と言われて納得する話なら分かる。
運命の恋、運命のライバル、こうなることが運命だった。
これらは、とても濃いエピソードがたくさんあるということだ。
濃いというのは、
表面上の付き合いではなく、
人間存在の深くに関わる関係性ということだ。
浅い表面的な付き合いでは、
相手はたまたまその人で、交換可能で誰でもよい。
その場にいたからそうだ、という偶然でいい。
だが運命ならば、
最初はそんな偶然だとしても、
何回も何回も関わり、
お互いの深い部分を知り、
それを理解しあえた前提で行動するものである。
そこに偶然の入る余地はない。
全てが必然に見える。
必然に見えるというのは重要で、
それは物語がご都合主義でなく、
全部納得が行くように書かれているということである。
深い関係を描こう。
セックスよりも濃い関係だ。
彼らの生い立ちやここまで来たことすら、
出会う運命だったように感じられるような、
何もかも真反対で、何もかも深い理解が出来る、
濃い関係を描こう。
相手が自分の一部に思え、
自分が相手の一部に思えるような関係。
赤の他人からそこまで徐々に変化していく関係。
それは会話するだけでは培われない。
行動とその結果、それをどう受け取り次どうするか、
という行動のサイクルの中で、培われていく。
(最も簡単なやり方は、生死を切り抜けることだ)
それは運命のライバルや運命のコンビ(同性)、
運命の恋人(異性)になるだろう。
ドラマ風魔の小次郎においては、
小次郎と壬生は、運命のライバルと言える出来になっている。
小次郎と武蔵は、運命のライバルまで行っていない
(続編があれば行けたと思う)。
小次郎と姫子は、運命の主従関係(恋人よりも濃い、
魂の共有者)だろう。
蘭子と竜魔は、そうではないようにコントロールしている。
今後を想像させる楽しみを作る為だ。
姫子と夜叉姫は、一瞬の出会いで運命のライバルに見えるように作っておいた。
小次郎と麗羅は運命のコンビであり、
項羽と小龍も運命のコンビである。
原作風魔の小次郎は、死が色濃い。
忍者ものの非情さ、というよりは、
忍者ネタなので死ぬ盛り上がりをいっぱい出来るぞ、
ぐらいの感覚で書かれていると感じる。
(前作リンかけの、ギリシャ十二神あたりからの、
死にネタみたいな感覚で)
そこに運命性はなく、思いつきであろう。
週刊誌だからこそ、そのスピード感が原作の快感ではあった。
夜叉八将軍が出てきてからのスピード感は最高だった。
不知火の即死など、僕らのスピード感より上で、
その飛ばしっぷりが面白かった。
ドラマはそうはいかない。
19P読み捨ての漫画のようにはいかない。
何年も続く漫画ではなく、13週しかないのだ。
そこで僕は、死で別れる結末は同じだとしても、
それが運命であるように描きたかったのだと、
今なら思える。
納得しての別れというべきか。
それが運命であるように書こう。
必然的な偶然にすっぽりはまった感じだ。
そこまで深く濃く書ければ、
その物語は美しくなるだろう。
まあ大体死が絡む。人間存在全部を賭けるからだ。
たまたま生き残ればハッピーエンド、
生き残れなければバッドエンドかもだ。
運命は、死が理不尽でないことを納得させる、
我々の物語的装置であるかも知れない。
2016年02月13日
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