今特別そういう小説を読んでいるからかも知れないが。
小説は思索を書ける。
映画は思索を書けない。
思索の結果としての行動や主張することは書けるが、思索の過程は書けない。
逆に、
小説は行動を説明(描写)しなければならないが、
映画は行動を見れば一発で分かる。
小説では「やつは何をした?」はOKだが、
映画ではしたことは見たまんまだ。
つまり。
小説では目を奪われている。
映画では思索を奪われている。
小説では、一人称型で、
登場人物の思索を書くことが出来る。
先日あったことについて、
こうだったのではないかという推測をしたり、
これはこういう意味だったのではと意味付けたり、
あるいは現在の状況をいちいち並べることが出来る。
(映画では並べることはそれだけ実時間がかかるため、
ごく短いインサートの重ね以外は、
退屈な時間となる)
また、将来起こりうることや、
相手の出方によってあり得ることや、
その対抗策についても思索することが可能だ。
極端にいえば、
小説では、棋士の対局中の頭の中身を書くことが出来る。
映画では顔のアップと、どんな手を差したかしか撮れない。
つまり、結果しか撮れない。
こうしたら奴はこうでるだろう、だから今こうするのだ、
何故なら過去こうだったからだ、
しかしそれになんの今があるのか、
この勝負は勝とうが負けようが捨て試合なのだ、
いや、勝つのが棋士という人生だ。
このようなことを小説では書ける。
映画では顔のアップからこれを読み取ることは出来ない。
一人称では、頭の中が舞台というのはこういうことだ。
三人称では、頭の中を舞台にするなら、
「ミクロの決死圏 」のようにしかならない。
つまり、小説では講釈を垂れることが出来る。
小さな説という語源どおりに。
映画では講釈を垂れるのは、演説シーンだけである。
そして演説シーンは、最も駄目な説明台詞のひとつである。
2016年02月15日
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