2016年02月19日

中二病ノート

お話を作り始めるには、早ければ早いに越したことはない。
小学校レベルでの作り話、兄弟友達を夢中にさせる嘘話。
少なくとも中二ぐらいには、
みんな中二病創作ノートを作っていたことだろう。

改めて見る拷問を受けなくてもいい。
大切に封印しておこう。

今日は「小からはじめ、大に至る」原則と、
中二病ノートの関係。


すべからくものづくりというものは、
小さなものづくりをして、
出来るようになってから大作に挑むべきだ。

絵、音楽、演劇、立体物などを想像すればいい。
あるいは料理でもいい。

いきなり大作から作ると、
ペースが分からずに詰んでしまう。
完成出来る大きさを、最初は小さくしておいて、
全部に気が配れるようになってから、
出来るかどうか分からない大作に挑むものである。

お話づくり以外でたとえれば、想像するのは難くないだろう。
いきなり料理100人前を作りはじめて、
出来ませんでしたという馬鹿はいない。
一人前からやれよ、と全員が思うだろう。


ところが、お話づくりの中二病ノートは、
超大作から作り始めるものである。

世界の滅亡を救うため、
スーパー能力が与えられた主人公が、
世界を破滅するほどの力を発し、
世界を分割するほどの、敵や味方と何やらをする。
(黒い力と白い力とか、
世界は地水火風の四元素に所属するとか、
時間遡及能力と世界のはじめについてとか、
神と天使と悪魔との関係とか)

思い当たる節は沢山あるに違いない。
安心しろ。
みんなそうだ。
俺もそうだった。
むしろ、そうじゃない奴の創作のほうが信用できないぜ、
という事をこれから話そうとしている。

もし神様がいて、
全ての創作者の封印された中二病ノートを集められたら、
物凄いことになるだろうね。
(そういう超能力者が主人公のショートフィルムは面白そうだ)


さて、なにゆえ、
「小からはじめ、大に至る」原則を、
中二病創作は無視してしまうのか。
何故世界の命運などという極大スケールからはじめてしまうのか?
(100%の確率で、完成しないくせに)

実は、このこと自体が、
「小からはじめ、大に至る」原則を守っているのだ。
スケールの大小ではなくて、
「世界認識の小」、
つまり「世界を簡単に認識していること」から、
はじめているのである。

複雑怪奇な我々の目の前の世界を、
中二レベルでは認識しきれない。
大人の仕事の世界などちっとも分からないだろう。
中二の大人への認識なんて、
悪者か正義かの二者択一だ。
我々大人は、間のグレーを100通り以上に分けて考えるよね。

世界を単純に認識しているからこそ、
世界の滅亡とか、世界の成り立ちとかを、
すぐ書きたくなるのである。

それが中二病の正体だ。


大人になるにつれ、
世界はそんな簡単には出来ていないことが分かってくる。
社会構造や歴史や文化、
科学が解き明かした世界の認識
(工学から化学から医学からシステム論まで)、
人間関係の処世術や心理学、
大学一般教養レベルでも、
世界はどれだけ複雑かを、中二の頭脳レベルでは理解出来ないのである。

恋のひとつでもすれば、
他人とはいかに理解出来ない複雑なものかを知れるだろう。
部活の部長にでもなれば、
人を率いることの難しさを知るだろう。
ところが中二はそこまで世界を複雑に見ていない。


では、話づくりにおいて、
大に至るとはどういうことか。
「世界のリアリティーを知る」ということだと思う。

つまり、
話づくりにおいては、
スケールの大小は、必ずしも内容の大小ではない。
世界のリアリティーを詰めれば詰めるほど、
話のスケールはむしろ小さくなってくる。
ほんの少しの出来事が、
人の心を大きく変えていくことを好むようになる。

小は、世界のリアリティーが大雑把。
大は、世界のリアリティーが極限まで詰められた上でのお話。

勿論、物理的に、
小は、短編。
大は、長編。

文字数やページ数の大小と、
内容の大小がある、ということだ。



結論。

小からはじめ、大に至るべし。

世界の滅亡に関する中二病的な話を、ノート一冊以内に完結させよ。
出来れば数ページぐらいで終わるのがいい。
(ちなみに僕は300ページぐらいの鉛筆漫画で、
異世界に呼ばれて三本の剣を集める、
エクスカリバー編を、一年ぐらいかけて描いた)

それから世界のリアリティーを増してゆけ。
大長編に挑むのはやめなさい。

短編を何度も書いて、
内容をどんどん高度にしてゆきなさい。

きっとここで多くの人が脱落する。
殆どの中二病ノートは、
世界のリアリティーを理解して行く過程に過ぎない。
全ての人がお話づくりを生涯やるとは、限らないからである。

そこそこの文字数が自在になってきたとき、
はじめて、大長編に挑むべき。


高校生や大学で長編に挑む人もいるだろう。
だけどそれは大抵、はじめて書いた恥ずかしい長編だろう。
世界の認識がお子ちゃまだからだ。

それを恥ずかしくなく、人に見せれるレベルになるには、
自分自身が成長する以外にない。
posted by おおおかとしひこ at 07:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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