前記事のつづき。
何故ドラマが詰まらなくなったのか?
ストーリー型CMがなくなった理由。
面白い映画が減った理由。
それは、皆が決断を怖がっているからではないか?
数々のクレーム対策。
明言を避けて曖昧にしておくこと。
責任を回避できるようにしておくこと。
ヒットしなかった時のリスク回避。
保険をうつこと。
コンプライアンス。
「※CM上の演出です」。
「※フィクションです」。
リクープラインの確保。
数字至上主義。(みんな忘れてるかも知れないが、数字至上主義より前の時代があったのだよ)
炎上を避けたり、
無難にしたり、
まるくしたり、
言い訳の逃げの手を打ったり、
クレームを怖がったり、
冒険しなかったりすること。
守り。
それは、決断という責任を取ることと、
真逆のベクトルだ。
無難・ザ・グレート、
と僕は擬人化して言う。
それが、
世の中に素晴らしい物語を産むことの、
実は最大の敵ではないかな。
決断は、極論すれば死と引き換えだ。
失敗すれば死。
その面白さが物語だ。
みんな、死ぬのを怖がっている。
決断の先の果実を捨ててまで。
お前それでも男か。
女が社会進出したせいか。
女は死と隣り合わせの現場に来るな。危ないから下がってろ。
現場は男のものだ。
(ここでいう男と女は、生物学的性ではない)
僕は面白い物語を書きたい。
それはつまり特異な、新奇な決断を描きたいということだ。
チームがそれを許さない、
チームとして責任を取れないのなら、
個人でやるしかないのかなあ、
と、無難・ザ・グレートを倒すのではなく、
一人で闘うことを模索してるのかも知れないね。
もちろん、一緒にやりましょうという仲間や味方は歓迎だ。
ヒントは数字至上主義の逆にある。
誇りとか信用とか主義ではないか。
2016年02月25日
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