2016年02月25日

空気

いい物語は空気が違う。

緊張感、楽しそうな感じ、阿吽の呼吸、
言わずに伝わる感じ、信頼、刺々しさ。

それは役者同士が作るのか?
否だ。
それは、脚本に書いてある。
つまり、空気はあなたが作るのである。


よく、
「仲のいい役者だから、いい雰囲気が作れました」
などとインタビューされている役者がいる。
アホかと思う。
空気を作るのに手を抜いて、楽だった報告をされても知らんがな。
もっと役と向き合ったらどうだい。

勝手知ったるスタッフとか、あの何とかチームが、
とかもホントにどうでもいい。
脚本に書いてある空気を、プロフェッショナルとして作ることに、
楽してるかどうかしか関係しないからである。


さて本題。

空気とは何だろう。
たとえば、
ト書きに「二人は緊張している」と書いてあるのだろうか?
否だ。

空気とは文脈のことである。
二十年会っていなかった生き別れの兄が、
この扉の向こうで待っていると知ってるときの、
「扉をあける」というト書きに、
緊張感がこもらない訳がない。

このト書きを緊張感を持って演じられない役者は大根だし、
演出できない監督は糞だし、
それを理解していないスタッフも読解力がない。

(子役の為に、ト書きに文脈を書くことは例外)


脚本を書くという行為では、
台詞やト書きを書くことは二次的だ。
本質的には、具体的なものの奥にある、
ストーリーを作るという行為だ。

で、ストーリーというのは文字で表すことができない。
無理矢理表すと、上のようにあらすじ的なものになる。
説明や設定になってしまうのである。

ということで、文脈がいわく言いがたい、空気になる。



空気は、それ以前のものからだけではなく、
周囲の反応からも作られる。

たとえば「ドン引き」とかもそうだよね。

「ドン引きした電車の中で、バカップルが会話する」
なんてワンシーンは、
ドン引きという言葉を使わなくても、
具体的な台詞やリアクションで書くことが出来るよね。

昨今の脚本が下手くそなのが多いのは、
そういうときに「ドン引きだわ…」なんて台詞を加えてしまうことにある。

言葉で説明しないと伝わらないという、不安症でもあるのだろうか。
それともドン引きする低俗行為を書いたり、周りのリアクションを書く実力がないのだろうか。
いずれにせよ、
空気で読み取るべき文脈を、言葉に出すのは下手くそである。


人は、言うべきことを言わず、
言わなくてもいいことを言ってしまう。

だからこそ、言われたことから、
言うべきなのに言わなかったことを、
読み取る力がある。
それが空気の正体だ。

これを使えない奴は、言葉を操る資格がないと言える。
極端な例は、
京都人の「お茶漬けでも食べていきなはれ」だ。
これが「そろそろ帰れ」の意味で言われる空気を感じないのなら、
大人の社会で生きたことのない、単なる子供である。


外に発せられた表現なんて、
真意の部分集合でしかない。
むしろ、真意と解離し、真意と逆の時すらある。
それが空気に出る。

SMAPの公開処刑会見で、
「これからもSMAPはがんばります」という意味の言葉を、
言葉通りに取ったバカはいない。
そう言わざるを得ない異常な空気が支配していた。
そっちが真意であり、
それをみんなが受け取ったからこそ、
公開処刑なんて呼ばれているわけだ。



外に発せられた表現以外の真意。
真意から表現を決め、表現以外の真意を読み取ってもらうように、
空気を作ること。

それが表現である。

嬉しいときに嬉しい表情をするのは、表現では初歩にすぎない。



脚本は、ト書きと台詞を使って、
その具体のことにない、
空気を描く芸術であり、
その空気を変化させていくことを主とする芸術だ。



(ちょっと抽象的ですまん。
具体例で説明したいが、公開時期を待っている)
posted by おおおかとしひこ at 13:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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