いい物語は空気が違う。
緊張感、楽しそうな感じ、阿吽の呼吸、
言わずに伝わる感じ、信頼、刺々しさ。
それは役者同士が作るのか?
否だ。
それは、脚本に書いてある。
つまり、空気はあなたが作るのである。
よく、
「仲のいい役者だから、いい雰囲気が作れました」
などとインタビューされている役者がいる。
アホかと思う。
空気を作るのに手を抜いて、楽だった報告をされても知らんがな。
もっと役と向き合ったらどうだい。
勝手知ったるスタッフとか、あの何とかチームが、
とかもホントにどうでもいい。
脚本に書いてある空気を、プロフェッショナルとして作ることに、
楽してるかどうかしか関係しないからである。
さて本題。
空気とは何だろう。
たとえば、
ト書きに「二人は緊張している」と書いてあるのだろうか?
否だ。
空気とは文脈のことである。
二十年会っていなかった生き別れの兄が、
この扉の向こうで待っていると知ってるときの、
「扉をあける」というト書きに、
緊張感がこもらない訳がない。
このト書きを緊張感を持って演じられない役者は大根だし、
演出できない監督は糞だし、
それを理解していないスタッフも読解力がない。
(子役の為に、ト書きに文脈を書くことは例外)
脚本を書くという行為では、
台詞やト書きを書くことは二次的だ。
本質的には、具体的なものの奥にある、
ストーリーを作るという行為だ。
で、ストーリーというのは文字で表すことができない。
無理矢理表すと、上のようにあらすじ的なものになる。
説明や設定になってしまうのである。
ということで、文脈がいわく言いがたい、空気になる。
空気は、それ以前のものからだけではなく、
周囲の反応からも作られる。
たとえば「ドン引き」とかもそうだよね。
「ドン引きした電車の中で、バカップルが会話する」
なんてワンシーンは、
ドン引きという言葉を使わなくても、
具体的な台詞やリアクションで書くことが出来るよね。
昨今の脚本が下手くそなのが多いのは、
そういうときに「ドン引きだわ…」なんて台詞を加えてしまうことにある。
言葉で説明しないと伝わらないという、不安症でもあるのだろうか。
それともドン引きする低俗行為を書いたり、周りのリアクションを書く実力がないのだろうか。
いずれにせよ、
空気で読み取るべき文脈を、言葉に出すのは下手くそである。
人は、言うべきことを言わず、
言わなくてもいいことを言ってしまう。
だからこそ、言われたことから、
言うべきなのに言わなかったことを、
読み取る力がある。
それが空気の正体だ。
これを使えない奴は、言葉を操る資格がないと言える。
極端な例は、
京都人の「お茶漬けでも食べていきなはれ」だ。
これが「そろそろ帰れ」の意味で言われる空気を感じないのなら、
大人の社会で生きたことのない、単なる子供である。
外に発せられた表現なんて、
真意の部分集合でしかない。
むしろ、真意と解離し、真意と逆の時すらある。
それが空気に出る。
SMAPの公開処刑会見で、
「これからもSMAPはがんばります」という意味の言葉を、
言葉通りに取ったバカはいない。
そう言わざるを得ない異常な空気が支配していた。
そっちが真意であり、
それをみんなが受け取ったからこそ、
公開処刑なんて呼ばれているわけだ。
外に発せられた表現以外の真意。
真意から表現を決め、表現以外の真意を読み取ってもらうように、
空気を作ること。
それが表現である。
嬉しいときに嬉しい表情をするのは、表現では初歩にすぎない。
脚本は、ト書きと台詞を使って、
その具体のことにない、
空気を描く芸術であり、
その空気を変化させていくことを主とする芸術だ。
(ちょっと抽象的ですまん。
具体例で説明したいが、公開時期を待っている)
2016年02月25日
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