普段僕が下ネタを言うのは、人間の本質に迫るからである。
決して下ネタ好きだからではない。
人間の本質が好きなだけである。
人間はエロスとタナトスとリビドーと…まあどうでもいいや。
半脱ぎは、みんな好きだろう。
正確に言うと「異性の」半脱ぎね。
パンチラとか腹チラとか、眼鏡を取った瞬間とか、
ヘルメットや手袋や鎧を取った瞬間とか。
勿論ライダースーツのジッパーを開ける瞬間も。
靴やブーツを脱いで裸足を出した瞬間も。
気を抜いてる瞬間、オフショットが好きなのも、この一種だろう。
美人のすっぴんも俺大好き。
今作ってる作品は、普段前髪が印象的な娘を、
わざとデコだしにした。これも半脱ぎの範疇だろう。
つんくの前髪理論(過去記事参照)を思い出してのことだ。
さて、半脱ぎはビジュアルの話だが、
これは人間の本質に関係がある。
「心の半脱ぎ」の話に関係すると、それは脚本のことになる。
物語とは、人間の本質に迫らなくてはならない。
正確に言えば、人間の本質に迫っていないストーリーなんざ、
面白くもなんともない。
ただのレポートや三面記事に過ぎず、
あった出来事の羅列だ。
(僕が歴史の授業が嫌いだったのはそれが理由で、
大人になってから、人間の軌跡だったと分かってきて、
歴史が急に面白くなってきた)
どんな「事件→解決」のストーリーだとしても、
たとえ魚を盗まれたというちっぽけな事件だとしても、
その人間、主人公の内面に肉薄しなければならない。
もっと言えば、物語とは、
表面的には「事件→解決」の出来事を追いながら、
意味的に、人間の本質を描くものである。
前者を外的ストーリー、後者を内的ストーリーと呼ぶ。
「ハンセン病の裁判劇」を前者に、
「人間の差別心」を後者に据えた、
「砂の器」という映画は、前者も後者も骨太でデカイものを扱う。
「魚を盗まれ裸足で追う」を前者に、
「人間は愉快だ」を後者に据えた、
サザエさんのオープニングは、どちらも軽みを扱っている。
重さや軽さ、デカさや小市民加減など、
様々な組み合わせがあり、
恐らく物語というものは、これで分類できると僕は考えている。
それは、ラブストーリーとかアクションとかとかは、
全く別の物語分類法になるだろう。
さて。
ということで、
物語は人間(特に主人公)の本質に迫らなくては意味がない。
つまりそれは、心の鎧を取るということになる。
普段、人間は心に鎧を被っている。
家から外に出れば皆そうだ。
他人行儀になり、本音を隠す。
他人の前に出るからである。
電車の中で化粧する女が何故いけないかは、
心に鎧を被るべき公共の場で、
心に鎧を被っていないからである。
それは、その場に相応しくないと判断されるのだ。
さて、普段他人に見せる顔は、
意識的、無意識的に選択され、
大人ともなればそれは自動的になされるだろう。
我々は、自分の鎧の中にはは本当の自分がいることを知っている。
だが、他人の鎧の中に、本当の心がいるかどうかは、
外からは確認できない。
だから、鎧のなかに心があることが見える瞬間が、
僕らは好きなのだ。
普段業務姿しか見ない駅員さんが、
同僚同士で「今日は寒いね」なんて言い合っているのを見ると、
男なら「この人たちも人間なんだなあ」と安心し、
腐女子なら「カップル萌え〜」と反応するだろう。
つまり、外に見せる顔から、内なる心が覗く瞬間だ。
服を脱がなくても、これは半脱ぎである。
物語とは、
外に見せる顔だけで済む日常ではなく、
非常事態なる非日常を扱う。
外に見せる顔だけで済まないということは、
弱くて、恥ずかしくて、乱れる、内面の心をさらさなくてはならい事態に、
陥るということである。
これをどうにかして、かき回して、
日常が回復し、
心が(結果的に)成長するのが物語だ。
つまり物語とは、
半脱ぎから脱いで、かき回したりかき回されたりして、
再び鎧を着るまでを言う。
それは主人公だけではないだろう。
相手役や脇役もそうなるかも知れない。
下ネタを使わずに言えば、
本音を晒す、と言い換えてもいいかも知れない。
勿論、受け入れがたい本音もある(悪役)。
悪役は美男美女と相場が決まっているのは、
鎧の美しさと中身の醜さのギャップが面白いからである。
何故半脱ぎが嬉しいのか?
人間の中身が、垣間見えるからだろう。
肉体だけでなく、心もである。
具体的(ガワ)なだけでなく、
本質的(中身)な部分でも、
半脱ぎは嬉しい。
さて、件の作品は、デコだし狙いの単なるエロ作品か?
ところが、心も半脱ぎになっているから、
なかなか乙な作品になってるのだ。
公開したらまた解説します。
2016年02月26日
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