前記事で、「受信寮の人々」を酷評した。
あれは、○話、と銘打って置きながら、
一本もストーリーになっていない。
何故だろう?
出落ちだからである。
出落ちは、物語ではない。
つまり、ストーリーとは何か?を究明しようとしている、
我々にとって、最もどうでもいいもののひとつである。
出落ちとは、
「何か強烈なキャラが出る」ことの面白さである。
その強烈さは、
ビジュアルインパクトや、
そのしゃべり方や持ちギャグの面白さ、
キャラの基本設定などに依存する。
出たーの瞬間が最もインパクトが面白く、
そこから「そのキャラの面白さ」を一通りやり終えたら、
急に勢いが消えるキャラのことをいう。
小島よしおの「オッパッピー」は、出落ちである。
その前の、「下手こいたあー」は、出落ちではなく、ストーリーである。
僕は小島よしおの「下手こいたあー」のネタをもっと見たかったのだが、
インパクトの強い、その後のウェーイからそんなの関係ねえ、
オッパッピーまでの一連のネタにより、
小島よしおは出落ちキャラにさせられてしまった。
本来、笑いのネタ、
「何かをしようと思っていたら、勘違いして別のことをしてしまった」
はよくあるパターンだ。
これを小島よしおは工夫すべきであり、
オッパッピーに代わるインパクト出落ちを考えるのは彼の仕事ではない。
何故なら、出落ちとは消費だからである。
出落ちは、出たら終わりで、その出が、飽きたらポイだからである。
小島よしおは、失敗ネタを沢山作るよりも、
オッパッピーの変顔を消費されることを選んだ。
(彼自身が望んだかどうかは知るよしもない)
だから出落ち扱いされ続けているし、
雪まつりでも水着一丁で出落ち笑いを取らなければならない。
さて。
出落ちは、物語ではない。
何故か。
物語とは何かを考えれば分かる。
主人公に、ひとつだけ必要なものは?
勇気?
知恵?
イケメン?
秘められた能力?
いい人の性格?
主人公の格?
キャラ立ち?
必殺技?
どれもマストではない。全部なくてもいい。
意気地無しで、バカで、不細工で、
能力が開花せず、性格も悪く、三下で、
平凡で、必殺技もなくていい。
たったひとつだけ必要なものはなにか。
目的である。
物語とは、彼の目的が実現するか、失敗に終わるかを書くものである。
これを観客側から見れば、
彼の目的の遂行に感情移入し、
その結末に一喜一憂することだ。
何故小島よしおを例に出したかというと、
彼の「下手こいたあー」は、小さいながらも物語の形をしているからである。
「○○しようとしたら、××してしまい、失敗した、下手こいたあー」
というパターンにおいて、
○○という目的を持っているのだ。
それがハッピーエンドにならず、
間抜けゆえに、バッドエンドになってしまった、
のが、短いながらもストーリーの体をなしているのである。
勿論、それが面白いかどうかは別問題だ。
その失敗ネタよりも、
その後のそんなの関係ねえ!のほうが面白かったため、
彼は一発屋の出落ち野郎に成り下がったのである。
(本来、そんな失敗をしてしまった間抜けな俺、
しかしそんなの関係ねえ、と立ち直る、というストーリーの一部だった筈だ)
勿論。
笑いはストーリーでならなければならない、
という訳ではない。
小島よしおを、ストーリーの部分とそうでない部分に、
仕分けしてみただけだ。
そして、そうでない部分、
インパクトはあるが飽きられる、出落ち部分を見分けられるように、
分析したまでだ。
たとえば出落ちだけのラッスンゴレライは、
インパクトだけの一発屋で、
もはや誰も覚えていない。
出落ちは、そういう運命にある。
飽きるまでの命である。
そして、我々はストーリーテラーである。
ストーリーと違うものを、ストーリーと混同してはならない。
ストーリーと出落ちの、どちらが崇高かを論じているのではない。
ただ、混同してはならないと言っているだけである。
さて、
「受信寮の人々」が何故詰まらないのか。
出落ちだから詰まらないのではない。
彼らの出落ち、たとえば、
平野レミやタイムスクープハンターが、
オッパッピーより詰まらないだけの話だ。
寒い出落ちは、出落ちに頼るがゆえに、
滑ったときに取り返しようがない。
出たら終わりなのだから、あとは帰るしかない。
出落ち滑り芸人、という枠もある。
ゲッツ板野や、出川がそうだ。
つまり、「受信寮の人々」は、
出川並の滑り出落ちを、7話も連発しているから詰まらないのである。
このブログでは、
ストーリーとは何かを究明しようとしている。
素晴らしく面白い出落ちを究明しようとしていない。
そして、出落ちは、ストーリーの敵である。
面白い出落ちを考えたら、
面白いストーリーを考えた、
と勘違いしがちだからだ。
この勘違いはプロにも散見される。
代表的なものは、
「スターウォーズエピソード1」の、
ダースモールである。
出た瞬間が一番ワクワクするのだが、
ただ戦って死んだ、何のために出てきたのか全く期待はずれのキャラクターだった。
結論はひとつ。
彼は出落ちの為に出てきただけだ。
それは、ストーリーとはなんの関係もなかった。
つまり、尺埋めの芸人枠に過ぎなかったのだ。
彼に目的を与えれば、途端にストーリーに参加することになっただろう。
何も難しいことをする必要はない。
誰かが一言いえばいい。
「あのダースモールは、自分より強いやつを探して殺し合いをしている、
狂犬だ」と。
それさえあれば、まっぷたつにされて笑いながら死んで行けただろうに。
「俺より強いフォースに会えた!」と、
話のテーマに関わる一言をいってもよかった。
僕はエピソード1には、露骨な中国人差別が潜んでいると思っていて、
差別対象の奴隷同然の中国人には、一言も台詞をやるもんか、
寧ろロボットのように闘って死ね、という悪意を、
ダースモールというキャラクターに感じる。
話がそれた。
ということで、
出落ちをしてはならない。
それは、ストーリーを作っていると勘違いさせる、
わりと強力な麻薬である。
多くのストーリーテラー志望が、
キャラの設定は出来るが話が書けないと悩んでいる。
当たり前だ。
キャラの設定は、出落ちに属するからだ。
どうすればいいかは、既に示した。
目的を作ることだ。
その人が、何をしようとしているのかを、作ればいい。
そうすれば、そのために何かをして、
それが成功したり失敗したりといった、
結末を作ることが出来る。
それがストーリーである。
(もっとも、面白くないストーリーである可能性はある。
そのとき、小島よしおのように、出落ちのほうが面白ければ、
出落ち芸人の道をゆけばよい)
つまり、僕の「受信寮の人々」への批判点はふたつある。
1.第○話と銘打って置きながら、ストーリーではないこと。詐欺やんけ。
2.出落ちとしては、小島よしおの出落ちより面白くない。
さて、「受信寮の人々」という企画性は、
「ヘンテコな寮に住む、NHK番組のキャラを、
毎回出落ちに使う」というフレームワークである。
このフレームが機能するのは、
その毎回の出落ちが、小島よしお並に面白い時に限る。
そして一回でも滑ってはならない。
滑ったら冷えるからだ。
冷えた場を暖めるのは、プロでもなかなか難しい。
そして、初回から滑っている。
NHK番組のキャラが、小島よしお並にインパクトがあり、強烈だとは思えない。
なのに出落ちに使えると誤断している、
その判断が寒い。
オーディションを想像しよう。
小島よしおやダースモール並の出落ちインパクトキャラを探している。
その列に、
平野レミやタイムスクープハンターや天気予報の人が並んでいる。
僕なら全員不合格にする。
NHKのキャラを上手く使ってまとめたって?
知らんがな。俺はお前のお母さんじゃねえよ。
良くできました所が誉めポイントじゃねえ。
俺は、一介の視聴者だ。
2016年02月28日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック