苦い思い出を記録し、後進の為にしよう。
「いけちゃんとぼく」の編集作業でのこと。
三幕のクライマックス、野球シーンを削ってはどうか?
と言ってきたプロデューサーに、
僕は耳を疑った話。
サイバラの原作漫画は短編の連作集合体であり、
一本の軸を通さない限り映画にはならない、
というのが我々の最初の了解だったと思う。
そこで、どのような軸を通すか、というのが脚本打ち合わせの最初になる。
僕は、
「想像の世界に逃げがちないじめられっ子が、
現実に直面することで、次第に現実と噛み合うようになる、
その時想像の世界が見えなくなる」
という軸を提案し、
受け入れられ、
その線で脚本を書いた。
ところが、予算が一億ほど削られ、
「想像の世界」を再現するCGが一億近く削る決定が出されてから、
脚本がおかしなことになってゆく。
想像の世界に逃げる、という表現は、
最低限僕の粘土細工で表現することになり、
いけちゃんとのダイアローグだったシーンも、
ヨシオの独り言に変えられたシーンが沢山ある。
なんだか軸がよれたのである。
一度よれだすと、修正しよう修正しようとする力が色々働き、
ダッチロールになってゆく。
不安定なバイクの振動のように。
想像の世界が激減したことで、
ヨシオの逃避先がよく分からなくなり、
「いじめられっ子が機転で野球勝負をしようと提案、
そのことで団結が起こり、結果仲良くなる(仮想敵国の原理)」
という軸が残ることになる。
こういう話になるけど、よろしいか?と、
僕が脚本家として、書く前に確認しなかったのが、
今でも悔やまれる。
「書いてみないと分かんないよ」と、素人ほど言う。
そういう奴は、書いても分かってないことがほとんどだ。
だってその話で、「野球シーンを削ろう」なんて言うんだぜ?
漫画チック演出が気にくわない、
もっとリアリスティックな野球演出に、とかなら分かるが、
全なし、という決断はビックリする以外の何者でもない。
だってクライマックスだぜ?
これまでのことが全部集結して決着がつく、
大団円ポイントだぜ?
あのシーンだけで撮影三日かけた、100カット以上あるシーンを?
いまだに僕は意味が分からない。
だったら脚本状態で話せば良かったではないかと。
分かってない人と、書く前から、話の構造を、
共有しておこう。
その人に、これとこれとこれがこう入っていれば、
満足ですね?
と確認しよう。
そうでないと、「イメージと違う」と、絶対に言い出す。
あんたのイメージなんて、最初からなかったくせに。
二度とそのプロデューサーと仕事をすることはないだろうが、
どこかで会ったら、どんなイメージだったのかを、
自身の口から聞きたいものである。
書く前からそれを確認するのがコツだ。
蓮佛美沙子出演がマスト、というお題は最初に言われたので、
実に上手くクリアしている。(みさこさんは原作にないキャラである)
あとからの修正は、必ずよれる。
それがよれると判断したら、
積み上げたものを全部壊して、
一から作ったほうが早い場合が多い。
僕にその勇気がなかったことが、いけちゃんの脚本の傷となっていると、
いまだに思うのである。
書く前に、大まかな構成を示し、イメージを共有すること。
その時点で、ログラインがあるとなおよい。
これは一体どういう物語なのかを、
一枚絵で示すのである。
僕の親しい人は、出来上がった最終稿を「殴り野球」と一言で言った。
想像の世界への逃避がなければ必然そうなるわな。
そういう共有だ。
2016年02月29日
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