2016年02月29日

大雑把な構成の共有2

苦い思い出を記録し、後進の為にしよう。

「いけちゃんとぼく」の編集作業でのこと。
三幕のクライマックス、野球シーンを削ってはどうか?
と言ってきたプロデューサーに、
僕は耳を疑った話。


サイバラの原作漫画は短編の連作集合体であり、
一本の軸を通さない限り映画にはならない、
というのが我々の最初の了解だったと思う。

そこで、どのような軸を通すか、というのが脚本打ち合わせの最初になる。

僕は、
「想像の世界に逃げがちないじめられっ子が、
現実に直面することで、次第に現実と噛み合うようになる、
その時想像の世界が見えなくなる」
という軸を提案し、
受け入れられ、
その線で脚本を書いた。

ところが、予算が一億ほど削られ、
「想像の世界」を再現するCGが一億近く削る決定が出されてから、
脚本がおかしなことになってゆく。

想像の世界に逃げる、という表現は、
最低限僕の粘土細工で表現することになり、
いけちゃんとのダイアローグだったシーンも、
ヨシオの独り言に変えられたシーンが沢山ある。

なんだか軸がよれたのである。

一度よれだすと、修正しよう修正しようとする力が色々働き、
ダッチロールになってゆく。
不安定なバイクの振動のように。

想像の世界が激減したことで、
ヨシオの逃避先がよく分からなくなり、
「いじめられっ子が機転で野球勝負をしようと提案、
そのことで団結が起こり、結果仲良くなる(仮想敵国の原理)」
という軸が残ることになる。

こういう話になるけど、よろしいか?と、
僕が脚本家として、書く前に確認しなかったのが、
今でも悔やまれる。

「書いてみないと分かんないよ」と、素人ほど言う。
そういう奴は、書いても分かってないことがほとんどだ。

だってその話で、「野球シーンを削ろう」なんて言うんだぜ?


漫画チック演出が気にくわない、
もっとリアリスティックな野球演出に、とかなら分かるが、
全なし、という決断はビックリする以外の何者でもない。
だってクライマックスだぜ?
これまでのことが全部集結して決着がつく、
大団円ポイントだぜ?
あのシーンだけで撮影三日かけた、100カット以上あるシーンを?

いまだに僕は意味が分からない。
だったら脚本状態で話せば良かったではないかと。




分かってない人と、書く前から、話の構造を、
共有しておこう。

その人に、これとこれとこれがこう入っていれば、
満足ですね?
と確認しよう。

そうでないと、「イメージと違う」と、絶対に言い出す。
あんたのイメージなんて、最初からなかったくせに。
二度とそのプロデューサーと仕事をすることはないだろうが、
どこかで会ったら、どんなイメージだったのかを、
自身の口から聞きたいものである。


書く前からそれを確認するのがコツだ。
蓮佛美沙子出演がマスト、というお題は最初に言われたので、
実に上手くクリアしている。(みさこさんは原作にないキャラである)

あとからの修正は、必ずよれる。

それがよれると判断したら、
積み上げたものを全部壊して、
一から作ったほうが早い場合が多い。

僕にその勇気がなかったことが、いけちゃんの脚本の傷となっていると、
いまだに思うのである。



書く前に、大まかな構成を示し、イメージを共有すること。
その時点で、ログラインがあるとなおよい。
これは一体どういう物語なのかを、
一枚絵で示すのである。

僕の親しい人は、出来上がった最終稿を「殴り野球」と一言で言った。
想像の世界への逃避がなければ必然そうなるわな。
そういう共有だ。
posted by おおおかとしひこ at 11:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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