さて、この一連のことは、
公共放送だから公開できることだ。
一企業なら、コンプライアンスやらなんやらで、
公開が躊躇われる。
だけど公共の名において、透明性を確保すべきだと僕は思う。
あらぬ悪口を書いている訳ではなく、
どういうことが映像作りにおいて起こるのか、
ストーリーはどう作ればいいのか、
後進の為の勉強の材料を提供しているつもりだ。
放送文化に親しんでもらう、という美名がNHKにはある。
これを読んだ人が、ストーリー作りを目指してもらえるなら、
僕らも本望というものだ。
ということで続き。
プロの現場は、様々な人の複合体である。
監督は一人だが、広告主であるNHKは、様々な立場の人の集合体だ。
僕が直接話すのは広報の担当の方だが、
受信料を徴収する部署の方もいるし、放送編成の人もいるし、
報道畑もバラエティ畑もいるだろう。
そんな人たちがコンテを見て、これが我が社の広告として正しいのか、
と議論をするのである。
勿論NHKに入るような人だからバカではない。
ただ、高度な政治的駆け引きはあるようだ。
とくに今回は、ラストのコピーが、
「もうお届けはお済みですか」に一時期変えられてしまった。
全ての受信料関係がこのコピーで統一されているからだ。
このフィルムの結論として、
なんだか上から目線すぎると言っても、
もう決まったことであるから、入れてくれと言われるのが落ちである。
最終的に繋がったものを見て、「やっぱ上から目線だな」と前言撤回をする位には、
NHKの人々はクレバーだ。
「ひとり暮らしをはじめたら受信契約を」に最終型では落ち着いた。
(他の広告主なら、前言撤回をするのはメンツに響くとして、
良くなくてもそのまま行っちゃうか、
各方面にOKを取るのが面倒だから前例主義を貫くような、
怠慢が横行している)
次に、音楽の話。
この広告は、「春のフレッシャーズキャンペーン」
という大きな枠の中で予算が組まれている。
春の年度代わりの気分を捉えて、気分新たにNHKのニュースをお伝えする枠である。
従って、
音楽を流すとき、それは「春のキャンペーンソング」という位置づけになる。
ところがこれは、今回のお話とは相性が悪い。
映画音楽とは、主人公の感情を増幅する為に流すものである。
したがって、
序の部分で母親が娘が旅立った寂しさを奏で、
破の部分でそれを展開させ、
急の部分でそれが急展開して、母親の前向きな気持ちで終わらなくてはならない。
普通はそのような劇伴を、作曲して録音する。
ところが「キャンペーンソング」というものは、
基本明るく前向きでなくてはならない。
それが、「お話の感情移入に寄り添う」べき劇伴と、真逆なのである。
毎年、春のキャンペーンソングは、
有名アーティストが担当したりする。
それはキャッチーで引きが強い、という判断のもとだ。
ということで、両者に板挟みになっていた担当の方は、
「手嶌葵に新曲を依頼するのはどうだろう」と提案してきた。
なるほど、内容は前向きでありながらも、手嶌のボーカルならば、
母親の心情に寄り添えそうだ。
流石だなあ、と思い僕は快諾した。
YouTubeをあさり、「岸を離れる日」という名曲があることを知る。
これをそのまま使ってもいいし、
こんな旅立ちの歌をつくってもらうのは、わくわくする。
ところが、手嶌の事務所に問い合わせると、
なんと月9の主題歌に抜擢されたというではないか。
さすがに他局の看板ドラマとバッティングする訳にはいかない。
ということで、別のアーティストを探さなくてはならない。
条件は、メジャーなアーティストか、メジャーな歌であること。
話題性があり、春のキャンペーンソングに相応しい格であること。
難しい。JASRACが関係ないから、古今東西全てが候補曲になる。
僕が考えたのは、
これは台詞劇だから、
なるべく歌の内容を聞いてしまわないような曲であることだ。
手嶌のボーカルはそれにとても相応しいのだが、
手遅れにつき代案を探さなければならない。
そうこうしているうちに、NHKサイドから、
カーペンターズの「close to you」はどうか、という提案があった。
丁度母親の世代の有名曲だし、と。
聞いてみると英語で台詞とバッティングしないし、
歌詞の意味が、ばっちりハマる。
一見よさそうだ。
だけどね。
演出コンテを切ってるから分かるのさ。
序破急の構成に、気持ちがより添えきれてないことに。
もっと寂しい感じから、明るく抜けて行く、
別アーティストのアレンジ探しはないだろうかと尋ね、
NHKの担当の方がやってくれることになった。
同時に、僕のYouTube検索がはじまることになる。
「卒業ソングの定番(母役の世代のもの、たとえばなごり雪)の、
英語カバー」を探すことにした。
なごり雪の英語カバー「ナゴリユキ」(KAT)は見つけたが、
英語日本語入り交じり、という変わったアレンジで、
聞いてると気になる。
気になるということは、台詞劇に集中出来ないということだ。
ユーミン「卒業写真」「春よ、来い」。
プリプリ「M」。
どうもしっくり来ないとき、GILLEの「さくら(独唱)」を見つける。
なかなかいい。
ということで、
「Close to you」「さくら」の二曲を編集で当ててみる、ということになった。
さて、脚本的な直しも入ることになる。
まずは、手続きをするスマホのアップが欲しい、と。これは入れればなんとかなるだろう。
母親が「家族割か…」と言っているのも欲しいと。
ちょっとあざといが、ラストに言えば、気持ちの出口としては分かる。
(最終的には娘が言うバージョンも撮り、編集してみて娘が言うことになった)
最も難しいのが、
「ガスや水道の手続きしたの?」あたりの会話を、
「なるべく早くにやりたい」というものだった。
出た。
CM制作でよくある要求だ。
広告主は、なるべく早くに商品を出したがる。
「なんのCMか早く分からせたい」からである。
民放だと何千万から億の金で作るのだ、その気持ちは分からないではない。
だがそれは、視聴者の気持ちを無視している。
数億払って、視聴者の気持ちを踏みにじっている。
もっと言うと、数億払って視聴者をレイプしている。
なぜ気持ちが大事か?
映像は理屈で見るのではなく、気持ちで見るものだからだ。
あなたは一度でも映像を理屈で見たことがあるか?
たとえば興味のない河合塾の講義映像を集中して見れるか?
100%ノーだ。これが理屈と映像の相性の悪さを証明する。
世の中の人は、気分や感情で映像を見るものである。
いつ飛び込んで来るか分からないCMは、なおさらだ。
「今から理屈を言うので聞いてください」と前置きしても寝るものだ。
「なんのCMか分からないから、最後まで見ないとき、
広告する機会を逸している」と理屈で思うのは、
視聴者の気持ちを何も分かっていない。
「なんのCMか分からないが、なんだか引きつけられてしまい、
最後まで見たら、なるほどと膝を打つ」のが、理想的なCMである。
「なんのCMか分からないが、最後まで見なかった」のは、
元々つまらないCMであり、
何のCMか分かったとしても効果がないCMである。
PRというのは、商品名を連呼することでは得られない。
相手の気持ちをほぐして、いい印象を持ってもらうことだ。
最後まで見てしまうほど良いフィルムをつくり、
なるほどそういうことか、と良い印象で落とすことである。
そういう感覚が理解出来ないのだろうか、
それともこの話は引きつけられないかも、という不安があるのか、
ほとんどの広告主は、「なるべく早くなんのCMか分からせたい」と、
100%言う。
「なんのCMか分かること」という理屈で考えて、
視聴者が、CMなんてなるべく見たくない、
という気持ちのことを分かっていない。
で、日本人的な玉虫色の結論が出ることになる。
「ハイハイ…」と言っているカットで、
「あとガスとか水道とかの手続きしたの?」という会話を足す、ということに。
僕は、「さがしものが一息ついたとき、ふと後ろを振り返って、
寂しさに気づくのだ」、
とその挿入に抵抗したが、
結局コンテに入り、撮影をすることになった。
それがこれだ。
演出コンテ(最終稿).pdf
僕はそれでは、
さがしもの→寂しさ、という気持ちの変化に、
余計な情報(ノイズ)が入ることに気づいていたので、
撮影時に「ハイハイ…」単品も撮り、
元のコンテとの二種類、編集でつくれるようにしておいた。
で、二種類編集でつなぎ、
やっぱ途中で感情移入が途切れる、という理由と、
「巣立ったヒナにしてやれること=受信料」というストレートに行く前に、
公共料金の手続きの話が入るとスムーズに気持ちが動く、
という二つの理由で、
元のコンテの編集バージョンになった次第である。
音楽に関しても、
「Close to you」は洒落てたけどイマイチ心に響かず、
心にしみいる「さくら」に無事なって、皆さんの前に披露された次第だ。
脚本のリライトは、このように、
自分の中だけでなく、
広告主(一人ではなく集団の意思)の要求やイメージとの擦り合わせで起こる事もある。
というか、その部分がとても大きい。
そのときに、ひどいものに直してしまわない本当のプロだけが、
いい仕事を最終的にものにする。
今回は、理想通りにうまくいったし、
広告主であるNHKの作品への理解力があったので、
記録に値すると判断した。
(普通はもっとぼろぼろに直されるということ)
僕の経験値で言うと、テレビ局の広告主は、
一般企業よりも映像でコミュニケーションすることを良く分かっている。
普段から映像慣れしているし、自分達も作る側だからだろう。
特にNHKは、比較的高学歴の頭のよさを感じる。
テレ東は、庶民的な世間知を感じた。
ちなみに「いけちゃんとぼく」では、脚本は20稿書き直し、
結構ぼろぼろになってしまい、とても後悔している。
僕が2500も記事を書いているのも、
あの間違いはどうやって防げたのか、を明らかにしたいからである。
さて次回は、まだ未熟な後輩に演出コンテを切らせるとどうなるのか、
という実験的なものをお見せして、
物語とは何かに迫ることにしよう。
2016年03月01日
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