2016年03月01日

プロの現場から6:台詞劇には、何が必要か?

うちの後輩の駆け出し監督に、
同じ企画コンテから演出コンテを切らせてみた。

何が未熟で、何が未熟でないか、これで明らかになる。


まずこれを見てみよう。作者名は伏せた。
後輩の演出コンテ.pdf

なんでこんなにイマイチなのだろう?

アングルに工夫はあるものの、肝心の話が、
なんだか薄っぺらく感じてしまうのは何故だろうか?

空気のようにあった、二人の関係性や雰囲気が全く取り払われて、
お決まり的な会話になってしまっているのは、何故だろうか?

僕の演出コンテ(初稿)と比較して考えよう。
演出コンテ(初稿).pdf

絵の雰囲気は、画力の問題なので関係ないとしよう。

問題は、台詞劇である。


印象で言うと、
僕のものは映画的で、
後輩のものは(その辺によくみる)CM的だ。
空気感が全然違う。


何が違うのか?



はい、考えて。
答えまで改行沢山入れておく。








答え:

さあ、芝居には何が必要だった?


目的である。




後輩のものは、鳥小屋に話がうつる前、
序に当たる部分(コンテ上10秒まで)が、
「目的のない会話」になっているのだ。

この電話は、どちらが、何の為にかけたのか?
全く想像することが出来ないのだ。
(勿論日常では、目的もなく電話することもある。
しかし物語は日常ではない、非日常を扱うのである)

母親がかけたのか?
心配して?
「娘の部屋は、ガランとしてしまった」というボイスオーバーは、
それに必要だろうか?
何の為にかけた電話なのか?

それとも、娘がかけたのか?
寂しくて?報告する為に?

いずれにせよ、それはあまりにも普通の日常感情であり、
物語であるべきこと、非日常ではない。
(そもそも寂しくても自立のために、
電話しないのが日常ではないか?)


一方僕のものは、
日常における、波紋を利用している。
「元の部屋に、引っ越しの際入れ忘れたものがあった」
という小さなトラブルである。
非日常というほどでもないが、
娘が田舎の母に電話する、立派な理由だ。

つまり、物語を書くということは、
「うまい理由をみつける」ことであるのだ。


さがしものという意味のないマクガフィンによって、
二人の設定があざやかに立ち上がったあと、
感情移入がやってくる。
ひと騒動の後ふと息をつくと、
「娘の出て行った部屋は、火が消えたよう」と気づくことで。

騒がしいのは電話の向こうであり、こちら側ではない。
母は、残された部屋にしかいないのである。

感情移入がここで成功する。
観客は、ここでグッと母親の内面に入り込むことになる。


一方、後輩のコンテでは、
どこで、誰に、感情移入するべきか分からない。
トップの「娘の部屋は、ガランとしてしまった」だろうか?
ここで感情移入しても、
NHKの料金の寒い話をされて感情移入は離れてしまうので、
ラストに至っても、その感情移入は帰ってこない。


「なるべく早くに何のCMか分かること」は、
物語というものを理解していない。

物語とは、遠くから徐々に結論に近づいて行く。
(「遠投」と業界ではたとえられる)

最初に結論を言っては、
視聴者はそもそも「いらねえよそんなの」スタートなのだから、
最初からはじかれるに決まってるのだ。

遠くから興味を持たせて、餌をまいて、感情移入でつかまえて、
気づいたら結論に至っているからこそ、
逃げられないし、
誘導されていることすら気づかず、
下手したら感動してしまうのである。

つまり、後輩のコンテは、
物語の入りで、失敗している。

言わなきゃいけない情報を、会話劇「風」に言えば、
相手が理解してくれると誤解(または期待)している、
昨今のダメCMと同じである。

言わなきゃいけない情報だろうがなんだろうが、
視聴者は、基本、情報などいらないのである。
それを、どう引きつけて行くかが、序盤の大事な勝負だ。



また後輩バージョンは、人物像も魅力がない。

娘はいかにもNHK的な優等生で、なにも特徴やキャラがない。
母には、感情移入に値するところがない。

僕の書いた「…そうね」という台詞はとても良いが、
実はそれまでに勝負は決している。
それを「そうかもね…」にアレンジしてみたところで、
その前で勝負は決まっているのだ。

僕の書いた娘は、調子が良くて、甘えん坊で、
それゆえちょっと不安なところがある。危なっかしい。
だから母親が「まだ私に出来ることがある」
と自然に思うように気持ちが誘導されている。

そういう人間関係の、計算と創作がまだ出来ていない。


あと僕が嫌いなのは、
ラス前の「娘、すがすがしく」のカットである。
このカットを見たからといって、
私たちに「希望のあふれた未来があるぞ」という気持ちが起こる訳では、
決してないからである。
何故なら、こんなカットはCMでいつも見るカットだからだ。
つまりは、CMでは平凡すぎる芝居なのである。

「巣立ったヒナへ、してやれること。」というカットで、
僕は、ヒナである娘を描かず、母だけを描いている。
つまり、「ヒナのことを想像する」というカットにしている。

それが後輩バージョンでは、
「つまらない希望の平凡なカット」にナレを重ねてしまっている。

絵と音を、同じものにするのは、平凡な奴のやることだ。

絵と音が違う所を向いているとき、
そこにおや、と思うことが起こるのである。
実際、「ヒナを想像する」という心の動きが、我々の中に生じる。
不在の在というやつだ。



台詞劇には、何が必要か?

文字に書かれていないことを、想像することだ。


後輩のバージョンは、書かれている情報だけしかない。
僕のバージョンは、書かれている情報以上に、
書かれていない情報をも受け取り、
さらにそれ以上に想像が膨らむようになっている。

同じ30秒で、受け取る世界の大きさが違うのである。


それを我々は、空気の差として読み取るのだ。





さて、6回に渡って、現場から中継してみた。
皆さんはオリエンからどんな物語を作ったか?
途中の横やりで、ぶれてしまわなかったか?
また、通りいっぺんの平凡なCMを作って、
それで満足してしまわなかったか?
たかが30秒に、こんなことが可能だと思ってもいなかったか?

僕が目指した、短編映画のような世界を、
僕は久しぶりに作れた。
こういうのを連発したいのだが、
最近そんな場がなくて困っている。
これを見ている広告主の方、ご依頼お待ちしております。
(最後は営業かい)
posted by おおおかとしひこ at 19:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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