物語とは、目的の実現の過程だ。
最終的に実現すればハッピーエンド、
実現しなければバッドエンドである。
ハッピーエンドパターンをとりあえず考えよう。
さて、それは成功ばかりのサクセスロードだろうか?
初心者が勘違いするのは、
最後の大成功に向けて、
成功、成功、また成功にならなければならない、
ということだ。
そんなことはない。
何か目的をもち、それを成功させようと思うと、
失敗することも沢山ある。
むしろ、リアルでは殆どが失敗だ。
だから、失敗を描くのがリアルなのだ。
失敗を重ねて、それから成功に至る様を描くから面白いのである。
つまり、物語の殆どの時間は、主人公は失敗している。
ただ、意味のない失敗を重ねても、成功にたどり着かない。
意味のある失敗が成功に結び付かなければ、必然性がない。
正確に言うと、その失敗が意味があるかどうかは、
最終的に成功するまで分からない。
だから物語に出てくる失敗とは、
最終的な成功にとって、意味のあった失敗に限定される。
すべては逆算とは、そういう意味である。
さて、それを前から書いている時はどう判断すればいいか。
現実と同じだ。
失敗を分析して、反省すればいい。
その失敗の原因を追求して、成功へ結びつければいい。
最終的にその究明が役に立つのなら、
その失敗に意味があったことになる。
つまり、失敗を失敗のまま終わらせず、
その失敗に意味を見いだせばよいだけである。
コミュ障には脚本は書けない、と僕が断じるのも、
この失敗から成功のプロセスを、
リアルで体験不足だから、というのが根拠である。
いや、子供時代には体験していたかも知れない。
じゃあ子供物を書くのがいいと思うよ。
映画の主演は大抵大人だから、
大人の失敗と、大人の反省と、大人の軌道修正と、
更に失敗して、徐々に成功へ近づいていく感じを、
リアルに(嘘だとしても、嘘っぽくなく、説得力あるように)
描かなくてはならない。
それが書けない奴は、シナリオを書く実力がないのだ。
たとえば実写進撃の巨人は、
あまりにも大人の現実とかけ離れた、幼児的失敗と成功だ。
あれが全員子供なら、話が成立したかもだ。
映画の殆どの時間は、失敗の時間である。
成功するのはラストだけだ。
それが単なる偶然の成功だと、映画になりゃしない。
それまでの失敗に、全部意味があったからこそ成功したのだ、
この成功は主人公の奮闘の末の果実、必然である、
ということにならないと映画ではない。
だから、カタルシスがあるのである。
あなたは、失敗を描けるか?
そこからの反省と立ち直りを描けるか?
逆に、それがシナリオの大部分なんだぜ。
さて、バッドエンドならその逆をしよう。
成功、成功、また成功。
だが誰も気づかない、穴があった。
そしてそれが破裂して、急転直下大失敗。
あるいは、成功→失敗→成功、
などというジェットコースター的な起伏にも、
この原理は応用できる。
失敗、反省、失敗、反省……、成功、成功、成功、それに油断して大失敗、…
という流れが、面白いのが、面白い物語である。
2016年03月01日
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