2016年03月01日

失敗する時間

物語とは、目的の実現の過程だ。

最終的に実現すればハッピーエンド、
実現しなければバッドエンドである。

ハッピーエンドパターンをとりあえず考えよう。
さて、それは成功ばかりのサクセスロードだろうか?


初心者が勘違いするのは、
最後の大成功に向けて、
成功、成功、また成功にならなければならない、
ということだ。

そんなことはない。

何か目的をもち、それを成功させようと思うと、
失敗することも沢山ある。
むしろ、リアルでは殆どが失敗だ。

だから、失敗を描くのがリアルなのだ。

失敗を重ねて、それから成功に至る様を描くから面白いのである。


つまり、物語の殆どの時間は、主人公は失敗している。


ただ、意味のない失敗を重ねても、成功にたどり着かない。
意味のある失敗が成功に結び付かなければ、必然性がない。
正確に言うと、その失敗が意味があるかどうかは、
最終的に成功するまで分からない。
だから物語に出てくる失敗とは、
最終的な成功にとって、意味のあった失敗に限定される。

すべては逆算とは、そういう意味である。


さて、それを前から書いている時はどう判断すればいいか。

現実と同じだ。
失敗を分析して、反省すればいい。
その失敗の原因を追求して、成功へ結びつければいい。
最終的にその究明が役に立つのなら、
その失敗に意味があったことになる。
つまり、失敗を失敗のまま終わらせず、
その失敗に意味を見いだせばよいだけである。


コミュ障には脚本は書けない、と僕が断じるのも、
この失敗から成功のプロセスを、
リアルで体験不足だから、というのが根拠である。
いや、子供時代には体験していたかも知れない。
じゃあ子供物を書くのがいいと思うよ。

映画の主演は大抵大人だから、
大人の失敗と、大人の反省と、大人の軌道修正と、
更に失敗して、徐々に成功へ近づいていく感じを、
リアルに(嘘だとしても、嘘っぽくなく、説得力あるように)
描かなくてはならない。

それが書けない奴は、シナリオを書く実力がないのだ。
たとえば実写進撃の巨人は、
あまりにも大人の現実とかけ離れた、幼児的失敗と成功だ。
あれが全員子供なら、話が成立したかもだ。



映画の殆どの時間は、失敗の時間である。
成功するのはラストだけだ。
それが単なる偶然の成功だと、映画になりゃしない。
それまでの失敗に、全部意味があったからこそ成功したのだ、
この成功は主人公の奮闘の末の果実、必然である、
ということにならないと映画ではない。

だから、カタルシスがあるのである。


あなたは、失敗を描けるか?
そこからの反省と立ち直りを描けるか?
逆に、それがシナリオの大部分なんだぜ。



さて、バッドエンドならその逆をしよう。
成功、成功、また成功。
だが誰も気づかない、穴があった。
そしてそれが破裂して、急転直下大失敗。

あるいは、成功→失敗→成功、
などというジェットコースター的な起伏にも、
この原理は応用できる。

失敗、反省、失敗、反省……、成功、成功、成功、それに油断して大失敗、…
という流れが、面白いのが、面白い物語である。
posted by おおおかとしひこ at 12:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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