単純な感情の表現なら、
少し基礎を積めば誰でも演じれる。
嬉しい、とか、怒ってる、とかだ。
原始的な感情だけでなく、
やや複雑な感情も、単一なら演じることはすぐできる。
たとえば、
退屈している、本意を隠している、などである。
勿論それは、仕草や台詞を創作してもいいし、
台本に書かれていることを、そのように演じてもいい。
また、優秀な台詞とは、
言っている言葉と、
その意味が全然違うものを言う。
たとえば、「ばか」を、「すき」の意味で使うような。
この「ばか」を好きの意味で言うことは、
「すき」を好きの意味で言うことより、
高度な演技法が必要である。
単純な、初歩的な演技法ではない、
自然な人間の演技が必要だ。
だが実際、我々が「ばか」を好きの意味で使ってる、
と判断するのは、物理的演技からではなく、
それまでの文脈だ。
文脈がないのに、演技だけでやったって、
なかなか伝わらない。
演技と文脈の両方で、我々は意味を読み取り、
確信し、更に味わうのである。
さらに。
あるひとつの言葉に、別々の文脈が入ってる、
という芝居は更にレベルが上がる。
たとえばNHK「娘が出て行った部屋」の、決めの台詞、
「…そうね」という言葉は、
「娘が東京に行ったことが、嬉しい」、
「娘が東京に行ったことが、さみしい」、
という二つの気持ちを同時に込めながら、
「娘が調子に乗っていることへの返答」として、
答えている、
三重の文脈が重なる台詞である。
三重の、と考えると急に難しくなるかも知れないが、
分析してみると難しいだけで、
我々は日常世界でも、このような複数の文脈が重なった言葉を言うものだ。
たとえば、
「行けたら行くね」は、大抵「行かない」の意味なのだが、
それを悟られないように言われる言葉である。
風魔の10話、
姫子の「では、小次郎は、死ぬか、風魔の里へ帰ってしまうのね?」
という問いに答えた小次郎の、
「…そうです」も同様だ。
表面上は質問に答えていながら、
主君への態度を示して、
自分の気持ちを切り取って返答することで辛さを表現している、
三重の文脈が重なった言葉だ。
このように、
複数の文脈が同時に重なると、
芝居は途端に面白くなる。
好きだとばれちゃいけない中での、
ドキドキした男女の会話、なんてのは良く出てくるだろう。
あなたは、こういう言葉を、
肝になる場面で使っているだろうか?
ただひとつの感情や、情報を、
与えるだけの台詞を書いちゃいないだろうか?
そんなの、演技初心者が練習するような、
詰まらない台本だ。
男「わー楽しい!」
女「やっほう!」
なんて台詞は、なんにも面白くない。
ところが、
これから告白がある、と互いに知っている男女が、
カラオケボックスに入った瞬間、
楽しいカラオケのふりをする、
という文脈になった瞬間、
この台詞の演技は、途端に面白くなるだろう。
複数の文脈が同時に重なる言葉を、
自在に使おう。
つまりそれは、その言葉に入っている意味以上の意味が、
それに込められているということだ。
「…そうね」
「…そうです」
と、たった一言イエスと言っているだけなのに、
それにはそれ以上の意味が、沢山込められている。
それが、面白い芝居になるのである。
2016年03月02日
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