前記事の続き。
つまりは、
台詞がひとつの感情を示すだけのもの、
は、平凡な台詞だ。
うれしいときに「うれしい」と言ったり、
新生活で希望があふれるときに、
上を向いて「よしっ」と言ったり、
ビールを飲んで「うまい!」と言ったり、
クルマを飛ばして「速い」と言ったり。
まあ、平凡なCMで良く見る台詞だろう。
あなたはそれを見て、本当にそうだ!と思ったか?
白々しい、としか思わなかったはずだ。
敵意を持たなくとも、無視したはずである。
つまりあなたがそう書けば、みんながそう思うだけである。
文脈で明らかなものを、そのまま台詞にするのは三流だ。
まあ、これすら出来ない下手くそな役者(たとえばモデル出身)が、
芝居するには丁度いい、初心者向けの台本だろう。
逆に、子役向けや素人向けには、
言葉と文脈を一致させた、初心者向けの台本を渡すといいだろう。
もしあなたがそういう台本を渡されたら、
あなたは芝居が下手だと、監督に見なされているということだ。
こういうスキルは、伸びるのかどうか分からない。
最初から出来る奴と、ずっと出来ない奴に二分される気がする。
ある日そういうことか!と目覚める奴は、
いない訳ではないだろうけど。
書く側にしても同じだ。
台詞が下手くそな奴は、
文脈がひとつしかなく、
その文脈で明らかな台詞を書いて、
書いた気になる。
で、嘘くせえとか、台詞が下手なことに悩み、
言葉のチョイスなのだろうか、
言い方なのだろうかと、ガワで悩むことになるのである。
いっそ、
文脈で明らかな台詞を、
全部「…」に書き換えてみてはどうか?
人が敢えて言葉にするのは、
文脈で明らかでないことを、敢えて言うときに限る。
「誕生日おめでとう!」
「うれしい!」
ではなく、
「誕生日おめでとう!」
「誕生日来月なんだけど、誰と間違えてるの?」
のように、異を唱えるときに、言葉にするものである。
うれしい、という普通の文脈なら、
「誕生日おめでとう!」
「…(恥ずかしそうに、プレゼントを受けとる)」
で十分な芝居である。
さて、更に高度な話。
我々の会話や対話は、
ひとつの文脈だけでなく、
複数の文脈が重なっていることが多い。
リアルでもそうだし、芝居のなかでもそうだ。
それは問題の設定や、
途中で分岐したサブプロットや、
その場にいるメンバーのサブプロットの文脈が、
今一堂に会しているからである。
仮に二人の会話だとしても、
今日どこに遊びに行こうか、という文脈と、
今日セックスしたい、という文脈が、重なりあっているぐらい、
ごく普通である。
ということで、
言葉はいつも思いに足りない。
複数の文脈を、全部台詞でつまびらかにすることはない。
「今日遊びに行く所を決めよう。
楽しくてテンションが上がるといいな。
そのままの流れでセックスに持ち込みたい。
君も望んでいるだろうことは、僕も分かっているが、
敢えて表面的に聞くぞ。
今日どこに行く?」
などと言うことはなく、
「今日どこに行く?」
と発話するのみである。
言葉はいつも思いに足りない。
思いのほうが沢山あって、
言葉はその一部を語るのみである。
しかし人間には読解力というものがあり、
言葉の裏の思いを受けとることが出来るのだ。
これまでの文脈があれば、
「今日どこに行く?」と言われた女は、
「…どこ行く?」と一言答えて手を繋ぐだけで、
セックスに合意したことを伝えることが出来るし、
我々観客も読み取ることが可能だ。
(ここでノンバーバルコミュニケーション、手を繋ぐ、
という芝居が決定的になっている)
言葉はいつも思いに足りない。
それは、コミュニケーションの欠点ではない。
言葉にしていないところの、コミュニケーションがある。
集合と補集合の関係だ。
その言葉を選んだからには、と読解し、
その言葉の裏にある意味や意図を、
理解できるのである。
ハリウッドの格言に、
「最良の台詞とは、無言である」がある。
それは、「…」の部分で、表現できることがある、
ということを我々に教えてくれている。
枝野の「ただちに影響はない」という一言から、
我々は文字面以上の意味を受け取った。
そういうことだ。
(まさかここを読んでいる人で、
そうかただちに影響はないのかあ、ほっとしたよ、
と胸を撫で下ろしたバカは、いないよね?
僕はノーベル平和賞クラスの名台詞だと思うんだがね)
2016年03月02日
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