先に答えだけ示す。
火星基地に話せるコンピューターがいて、
気温や圧力、実験の失敗などを報告し、
改善案を指摘したり、主人公の話し相手になる、
というのはどうだろうか。
恐らくだけれど、
原作が小説ということで、
無人島サバイバルならぬ火星サバイバルは、
一人称で書かれていたのではないだろうか?
主人公視点だからこそ、
彼の苦悩や工夫や発見や、
失敗や反省や観察や思考、
感情的な恐怖や達成感などが、
克明に書かれていて、
それが面白かったのではないだろうか?
一人称と三人称の違いは、過去に散々書いた。
映画は三人称形式である。
一人称でメインとなる、
「人の頭の中」を撮ることは出来ない。
じゃ三人称だとどうするのかというと、
その内的コンフリクトを、外的コンフリクトに置き換えるのである。
外的コンフリクトというのは、
一般に「敵を出し、彼と会話させ、闘わせる」ことをさす。
良く出る例は、「警察組織の不正をただす」という、
抽象的なコンフリクトを、
「犯人である警察署長を逮捕する」という、
具体的な物語に変換する、ということである。
さて、
オデッセイでは、敵は火星の自然であり、
意志疎通は不可能だ。
「警察署長を追い詰める」ような、映画的な楽しみには程遠い。
ダッシュ村ならば、時々ナレーションの解説があったり、
TOKIOたちが話し合ったり出来るが、
この主人公には喋る相手すらいない。
喋らないと、彼の思考や思いを口にすることは、
パントマイム以上には不可能だ。
この映画の脚本家は、
「ビデオレポートを記録する」という自然な芝居で、
彼の内面の吐露や、状況説明を試みたようだ。
航海日誌をつけるのは、この手の常套手段で、
実際に航海日誌をつけるかどうかというよりも、
もっともらしい、というレベルのリアリティーで、
我々はそのことをリアルだと受けとる。
(外人は毎回航海日誌をつけてて、マメだなあ、
と昔僕は思っていたが、これは映画の小道具という嘘なのである。
いわばご都合主義である)
だが航海日誌は、独白にしかならず、
三人称のハイライト、外的コンフリクトを描けない。
コンフリクトとは、他者と他者の間で起こるものだからだ。
つまり、主人公以外に、もう一人他者がいなければならない。
しかしそれでは、「火星の孤独」というコンセプトに反する。
二人で残されるわけにはいかない。
ということで、
火星に、喋るコンピューターがいればいい、
というアイデアにたどり着くことになる。
そのコンピューターが、肉声で状況を説明してくれ、
(気温や気圧、酸素状況、NASAの行動など)
それに主人公がぼやいたり、いきがったりすれば、
コンフリクト的な会話を作ることは簡単だ。
「このジャガイモは、60日分しかもちません」
「なにいってやがる。幸い、俺は植物学者だ」
というように。
「ローバーで谷までゆくのは、非合理的行動です」
「うるせえ。生き残るために、必要なんだよ!」
「砂嵐が近づいています」
「先に言えよ!」
などのように。
「火星は人間の生存に向いていません。最善策は、地球に戻ることです」
「知ってるよ!」
などのように。
これならば、原作の火星ひとりぼっちの構造を崩すことなく、
主人公の一人称内的コンフリクトを、
三人称の外的コンフリクトに置き換えることが出来そうだ。
映画版では、
火星ダッシュ村の話はそこそこにして、
早々に地球側に話を切り替えていた。
人と人の間にコンフリクトをつくる、
三人称形で話を進めるためだ。
僕が邦題を「火星救出作戦」とすべきだと判断したのも、
ドラマ(人と人の間の変化)は、地球側にあると感じたからだ。
まあそれはそれほど面白くなかったけどね。
コンピューターとコンフリクトを起こすドタバタにすれば、
火星ダッシュ村という、この映画のコンセプトを、
もっと面白く練れて、ジャガイモがピークではなく、
もっと後半にもサバイバルの山を持ってこれて、
地球側のドラマを縮小し、
原題どおり「火星の人」というお話になれたように思う。
ちなみに、似たような作品に、
「月に囚われた男」という佳作がある。
落ちは微妙なのだが、
比較して研究するのも乙だ。
僕はこっちのほうが面白いと思った。
要は、オデッセイの脚本チームに、
一人称と三人称の違いをわかり、
変換できる使い手がいなかったのだろう。
俺を呼べ。
2016年03月02日
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