僕は男子なので、昔から着せ替え人形の面白さを理解出来ない。
(だから女子のオシャレや髪型チェンジも、
本当の所はどうでもいい。話を合わせる社交辞令に過ぎない)
着せ替え人形程度の変化は、
映画で扱う変化に値しない、という話。
何故なら、外側しか変化していないからである。
映画で扱う変化とは、内面の変化だ。
いや、ドレスを着た気分と、ジャージを着た気分は違うって?
そうじゃない。
内面の変化は、永遠に変わる変化であり、
不可逆の変化のことだ。
「あの子は変わってしまった」(外見は変わらないのに)
という変化こそが、映画で扱う変化だ。
それが好ましい方向に変われば、「成長」とうつるし、
嫌な方向に変われば、「変わってしまった」とうつるだけのことである。
着せ替え人形は、その変化ではない。
「着せ替え」という言葉がそのまま意味している。
可逆変化という意味だ。
映画で扱う変化とは、
着せ替え人形で例えれば、
一度着替えたら二度と戻れないとか、
中身の裸に黒マジックを塗って黒人になるとか、
右手がもげるとか、
二体になるとか、
そういう変化のことである。
あなたが女の子なら、
かつて男子に人形をそんな風にされて、泣いたトラウマがあるかも知れない。
だって男子はそのような、
破壊や死などの、不可逆な変化が大好きだからだ。
男女論をぶつつもりはないけれど、
男子は不可逆な変化に敏感で、
女子は可逆な変化に敏感な気がする。
男女ホルモンの違いで、脳細胞や神経系もそのように発展するそうだが。
安定した平和な世界では、
可逆な変化のほうが優勢で、ちょっとした変化に敏感なほうが楽しい。
もしあなたが着せ替え人形が大好きなら、
あなたのお父さん(またはお母さん)が、
不安で壊れやすい世界から、
おうちという壁で守っていてくれた証拠かも知れない。
家の中だけでも、安定した平和な世界を、
保とうとしていてくれた証拠かも知れない。
ということで、
映画は男のものである。
世界の破滅とか、再生とか、独立を扱う。
世界という外面だけでなく、
人間の内面の、破滅とか、再生とか、独立を扱う。
着せ替え人形は映画ではない。
僕は少女漫画の実写化に肯定的ではない。
勿論、余程の名作ならば、
内面や外面の不可逆な変化を描いて、
きっちりとした映画になるだろうけれど、
昨今の流行りは、流行りの男女をカップリングさせて、
着せ替え人形を楽しむようなものばかりのような気がする。
まあ、あまり詳しくないので、
中には名作もあるだろうけれど。
不可逆で、取り返しのつかない変化を描こう。
それは、外見が何一つ変わってなくてもだ。
外見が何一つ変わってなくても、
我々は人間だから、
目の光が変わる。
例えば風魔の小次郎が、
最終回で、初回と全然目の光が違ったのは、
役者村井が高々二ヶ月で成長したのではなく、
役としての小次郎が成長したことを、
彼が自然に演じた結果でしかない。
着せ替え人形は、変化ではない。
たとえば風魔の小次郎では、
眉のメイクを徐々に太くしていたが、
眉よりも内面の変化のほうが大きいはずだ。
眉はその補助材料に過ぎない。
着せ替え人形は、変化ではない。
不可逆変化を、描こう。
つまり原理的に、初期設定は台無しにならなければならない。
2016年03月03日
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