2016年03月03日

着せ替え人形は、変化ではない

僕は男子なので、昔から着せ替え人形の面白さを理解出来ない。
(だから女子のオシャレや髪型チェンジも、
本当の所はどうでもいい。話を合わせる社交辞令に過ぎない)

着せ替え人形程度の変化は、
映画で扱う変化に値しない、という話。


何故なら、外側しか変化していないからである。

映画で扱う変化とは、内面の変化だ。
いや、ドレスを着た気分と、ジャージを着た気分は違うって?
そうじゃない。
内面の変化は、永遠に変わる変化であり、
不可逆の変化のことだ。
「あの子は変わってしまった」(外見は変わらないのに)
という変化こそが、映画で扱う変化だ。

それが好ましい方向に変われば、「成長」とうつるし、
嫌な方向に変われば、「変わってしまった」とうつるだけのことである。


着せ替え人形は、その変化ではない。
「着せ替え」という言葉がそのまま意味している。
可逆変化という意味だ。

映画で扱う変化とは、
着せ替え人形で例えれば、
一度着替えたら二度と戻れないとか、
中身の裸に黒マジックを塗って黒人になるとか、
右手がもげるとか、
二体になるとか、
そういう変化のことである。

あなたが女の子なら、
かつて男子に人形をそんな風にされて、泣いたトラウマがあるかも知れない。
だって男子はそのような、
破壊や死などの、不可逆な変化が大好きだからだ。

男女論をぶつつもりはないけれど、
男子は不可逆な変化に敏感で、
女子は可逆な変化に敏感な気がする。
男女ホルモンの違いで、脳細胞や神経系もそのように発展するそうだが。

安定した平和な世界では、
可逆な変化のほうが優勢で、ちょっとした変化に敏感なほうが楽しい。
もしあなたが着せ替え人形が大好きなら、
あなたのお父さん(またはお母さん)が、
不安で壊れやすい世界から、
おうちという壁で守っていてくれた証拠かも知れない。
家の中だけでも、安定した平和な世界を、
保とうとしていてくれた証拠かも知れない。



ということで、
映画は男のものである。
世界の破滅とか、再生とか、独立を扱う。
世界という外面だけでなく、
人間の内面の、破滅とか、再生とか、独立を扱う。

着せ替え人形は映画ではない。

僕は少女漫画の実写化に肯定的ではない。
勿論、余程の名作ならば、
内面や外面の不可逆な変化を描いて、
きっちりとした映画になるだろうけれど、
昨今の流行りは、流行りの男女をカップリングさせて、
着せ替え人形を楽しむようなものばかりのような気がする。
まあ、あまり詳しくないので、
中には名作もあるだろうけれど。


不可逆で、取り返しのつかない変化を描こう。
それは、外見が何一つ変わってなくてもだ。
外見が何一つ変わってなくても、
我々は人間だから、
目の光が変わる。

例えば風魔の小次郎が、
最終回で、初回と全然目の光が違ったのは、
役者村井が高々二ヶ月で成長したのではなく、
役としての小次郎が成長したことを、
彼が自然に演じた結果でしかない。


着せ替え人形は、変化ではない。
たとえば風魔の小次郎では、
眉のメイクを徐々に太くしていたが、
眉よりも内面の変化のほうが大きいはずだ。
眉はその補助材料に過ぎない。

着せ替え人形は、変化ではない。
不可逆変化を、描こう。
つまり原理的に、初期設定は台無しにならなければならない。
posted by おおおかとしひこ at 12:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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