2016年03月04日

連作短編と長編は違う

長編を挫折して書けなくなってしまう理由は、
連作短編と長編の混同があるのでは、
という説を展開してみる。


連作短編とは、
あるひとつの世界を作って、
毎度毎度違うエピソードを披露していく形式だ。
第○話表記の、一話完結形式。
(ここではつづきものではなく、
一話完結形式としよう。のちに拡張する)

ドラマ、連載漫画(週刊ペースだとキツイから、大抵月刊形式)
などはよくある。
我らがてんぐ探偵、ドラマ風魔もこの形式だね。


この連作短編式は、
小さな事件が起こり、毎度解決する。
で、最も重要なことは、
毎回主人公を変えることができることだ。
シリーズの主人公ではなく、
エピソード主が主人公になる。
多分、ここが長編との決定的な違いだ。

今回は○○回(キャラ名)という言い方もある。
たとえば風魔9話は麗羅回と呼ばれる(実質は陽炎回か?)。


で、連作短編は、
「主人公に次々襲いかかる難題と、
次々にクリアしていく主人公」ではなく、
「その小さなエピソード内での、主役と問題解決」を行う。

どういうことかというと、
各エピソードは独立しているのである。
それが同じ世界で発生しているから、
シリーズに見えるだけだ。


対して、長編というのは、
一人の主人公の、長い解決過程を描く。
連作短編の規模に収まらない、
規模が大きくて、解決過程のステップも沢山あるものを扱う。

これを、連作短編の形式で誤魔化してしまうこともよくある。
脇キャラのエピソードや、敵キャラのエピソードで、
いわば水増しすることによって。
すなわち、サブプロットによる水増しである。
しかし本来は、
水増ししなくても、
主人公を追って成立するだけの、
長い物語をつくらなければならないのだ。

つまり、
長編が書けないという問題は、
連作短編の集積で、単に長くなっただけのものを、
長編と間違えていることが原因ではないか?

連作短編の問題は、長編の問題から比べると、小さい。
つまり、連作短編の集積で長編を作ろうと間違うと、
サブプロットだらけの、ごちゃごちゃした編み物が出来てしまうはずだ。
そうして、その複雑さや、風呂敷を畳むのが面倒になり、
挫折してしまうのではないだろうか?

連作短編を一話完結に限定したが、
続きものの連載でも同じことだ。
一話の単位が、数話から数十話のブロックに拡張されるだけだからだ。


つまりあなたは、
連作短編しか書いてないのかも知れない。

話がオムニバス的になったり、
色んなキャラが魅力的で主人公にスポットが当たらないのは、
皆そのような傾向にある。
勿論主人公がメアリースーな確率が高い。

長編に必要なもの、
つまり、
長編に相応しい問題やシチュエーションという題材、
長編に相応しい葛藤という内的問題、
長編に相応しい中盤の展開、
長編に相応しいクライマックスとカタルシスを、
そもそも用意出来ていないから、
連作短編を長編と間違えて、
上手く完結出来ないのではないだろうか?

原理上、連作短編は、世界が続く限り続けられる。
サザエさんやドラえもんのように。

長編はそうではない。世界の永遠の変化を描くからである。
つまり、この世界で似たようなことを永遠に続けたい、
と作者が思う限り、それは連作短編の集積であり、
長編ではないのである。


連作短編を終わらせることは可能か?
「世界が続く限り可能」なのだから、
その世界を終わらせてしまえばいい。

ネットで出回った、サザエさんの最終回が全員死亡とか、
ドラえもんの最終回が大人になった時とか、
実質のドラえもん最終回「さようならドラえもん」が、
ドラえもんが未来に帰るとか、
そうすればよいのである。
店ものだったら潰れておしまいとか、二号店を出しておしまいとか、
学園ものだったら卒業でおしまいとか、
フォーマットは色々あるだろう。
原作いけちゃんとぼくだって、ドラえもんが急に帰るように、
急に正体ばらして少年時代を強制終了させている。


ちなみに「いけちゃんとぼく」はじめ、
サイバラ漫画が何故映画化が難しいかの答えがこれだと考える。
連作短編だからだ。
そのエピソード内での事件と解決(落ち)が出来ていて、
長編全体での、内的問題と外的問題が定義されていないからである。
つまり、「ひとつのセンタークエスチョン」が存在しないのだ。
連作短編の決定的欠点は、
全体のセンタークエスチョンのあるなしで語れるかもだ。

それでも「いけちゃんとぼく」は、
「いじめられっ子少年が大人になること」という「ひとつ」を定義し、
他のぼんくら映画化よりは、上手くいったほうだと思う。
(勿論もっと上手く行かせるべきだった、という批判は甘んじて受ける)



もし、連作短編を長編だと勘違いしているがゆえに、
完結出来ないのだとしたら、
対策はふたつある。

ひとつは連作短編だと自覚して、
成立させている世界を終わらせての完結だ。
もうひとつは、一から長編用に作り直すことだ。

前者は楽だが、打ち切られた連作短編のようになるかも知れない。
後者は、いばら道だ。
posted by おおおかとしひこ at 14:41| Comment(4) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
大岡俊彦様

いつもありがとうございます。
連作短編における変化ついて質問させて頂きます。

物語における変化というと、
長編の場合、不可逆的な変化だと思うのですが、連作短編の場合はどうなるのでしょうか?

僕が普段から書いていて思うのは、連作短編における変化とは、
「可逆的な変化」ではないか?ということです。

例えば、最初、機嫌の悪いキャラクターが、事件を通して、最後に機嫌を直す。
…この場合、次の話以降、事件次第ではまた機嫌を悪くすることもあり得るので、可逆的です。

ですが、例えば「ドラえもん」を例にすると、
のび太がドラえもんの力を借りずに、自分で努力できるようになったら…。
ドラえもんの存在が必要なくなるので、物語全体がそこで終了になります。つまり、不可逆的です。

連作短編を書くときは、事件を通して、可逆的な変化を書いたら良いのではないか?
もっと言うと、複数の登場人物が、可逆的な「相互変化」を起こしたら良いのではないか?
というのが、今のところの僕なりの結論です。

合っているような間違っているような、なんとも判断しかねるので、大岡さんのご意見をお聞かせ願いたいです。

よろしくお願いいたします。
それでは、失礼致します。

ケルベロス
Posted by ケルベロス at 2016年03月12日 10:54
ケルベロス様コメントありがとうございます。

「ドラえもん」は、ギャグジャンルなので、
可逆変化でしょうね。大体ぎゃふんで元に戻る。
(のび太は全く教訓を学習していないように思える)

風魔は、サブキャラクターも成長するし、
主人公自身も成長します。
主人公とサブキャラクターが相互に変化していくので、
不可逆でかつ相互な変化といえるでしょう。
連作短編に映画の方法論を持ち込んだつもりなので、
狙い通り。(原作では誰も成長していない)
でも、主人公一人ではなく、皆も変化するものですよ。

もうひとつありうるのは、
「事件簿もの」です。
毎回ゲスト(依頼者)の事件をレギュラーが解決する。
仮面ライダーや、我らがてんぐ探偵などなど。
レギュラーは変化せずにヒーロー的な活躍をし、
ゲストが変化の役割をします。
映画でも「シェーン」は、ゲストが変化しています。

このタイプは続編が量産しやすいので、
ドラえもん型とともにポピュラーですね。


ということで、連作短編ではレギュラーの変化は殆どなく、あっても可逆変化でしょう。
それは、「ケンカしても元通り」という我々の日常感覚の反映(安心の願望)ではないかと。
実際、レギュラーが変化してしまうと、退場になって作品が短命になるしね。
(風魔は退場だらけなので、変化を作っていけた)

ドラえもん型は、ほのぼのしたものに、
事件簿ものは、シリアスなものに向くと思います。
テーマによって変化の度合いも異なるでしょう。
(連作短編そのもののテーマ、というのも曖昧なんだけど)
でもいつか終わらせなきゃならないから、
一話に主人公の変化の前ふりをしておいて、
最終回に主人公が変化して終わる、というパターンが多いでしょう。
Posted by 大岡俊彦 at 2016年03月12日 12:55
大岡俊彦様

お返事ありがとうございます!
大変参考になります。

なるほど、ギャグ作品の場合、何があっても、次回は「戻る」わけですね。
ということは仮に、オチで主人公の家が爆発して跡形も無くなったとしても、次回は何事もなかったように始める…ということも出来ますよね(投げっぱなしは、ギャグ作品だと頻繁にありますよね)。

逆に、「風魔」など、最後に主人公が成長して終了する場合は、1話ごとに戻していたら見る側は萎えてしまいます。
元に戻すのはご法度ですね。
そう考えると、バトル漫画における「インフレ」は、主人公の実力を元に戻すことが出来ないがために起こる現象ですよね。
物語が続く限り、主人公もまた不可逆な成長をし続けないといけないので(元に戻せない)、やはりどこかで辻褄合わせに限界が来るのでしょうね。

また、「可逆変化」という観点で見てみると、物語の最後だけでなく、途中も、可逆変化の連続のように思えてきました。
小さい可逆変化を積み重ねて、結果、大きな不可逆変化が起きる…というイメージです。
もっと具体的に考えると…小さい目的を達成しつつ、変化を積み重ねて行き、それによって最後に大きな目的を達成して、大きな変化を起こす。という感じでしょうか。
大岡さんがよく例に出される「ロッキー」では、途中、修行をするなどしてロッキー自身が少しずつ変化し(同時に周囲のキャラクターも変化している)、最後に世界戦という大きな目的を達成して、大きな成長が起きて、終了。という感じですね。

「ロッキー」の場合、続編が制作されておりますが、仮に1で終わったとしても、違和感は無かった筈ですよね。
ということは、最後まで行っても後で戻るように設定(視聴者が萎えるような戻り方はご法度)しておけば、映画であっても、連作短編にすることは可能ということですね。
映画と連作短編、両者の違いは「可逆的かどうか」という一点だけのようにも思えます。

また、ゲストが変化するパターンですが、これは、「大長編ドラえもん」ですよね。
普通は、あれだけの大冒険を繰り返したら、のび太もちょっとは成長しそうな物なんですが(笑)
変化、成長するのはゲストだけで、のび太側は結局元の日常に戻りますからね。

可逆変化、不可逆変化という観点で改めてストーリーを見てみると、またいろいろと新しい発見があったように思います。
ありがとうございました!

それと、僕は漫画を描く人間ですが、脚本添削スペシャルも(間に合えば)挑戦してみたいと思います。
それでは、失礼致します。

ケルベロス
Posted by ケルベロス at 2016年03月16日 14:05
ケルベロス様コメントありがとうございます。

そういえば、と思ったのですが、
我々見る側にも、可逆変化と、不可逆変化があります。

毎週見るようなものは、大体我々はリセットされてるので、
可逆なものを受け入れやすいんではないでしょうか。
映画の場合は一気見なので、可逆だと、
「意味なかった」と思いやすいのだと考えます。

我々は長期的には不可逆な存在です。
つまり、「飽きる」ことがあります。
バトルインフレは、成長などの内面的不可逆変化がなくとも、
我々が刺激が物足りないという理由で、起こることもあり得ます。
(たとえばケンシロウや悟空は、内面的成長をしてると言えるか?)

ゲストを不可逆変化の手段に使うのは、
レギュラーが可逆変化で元に戻って、
レギュラーを延命する仕組みとも言えます。
「ルパン三世/カリオストロの城」は、そのさじ加減が絶妙。
「うる星やつら2/ビューティフルドリーマー」は、
あたるとラムを不可逆変化させすぎて、
原作より先に結論を出してしまい、原作者激怒という逸話があります。
風魔ね、ドラマで僕が先に結論を出してしまった嫌いはありますが、車田先生は快く迎え入れてくれました。
Posted by 大岡俊彦 at 2016年03月16日 15:32
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