オカルトめいてるけど、
人物を書くには、その人物の無意識が、
自分のなかになければならない。
憑依、と呼ばれる現象と、結果的に似ている。
その人物の生まれてから現在に至るまでを想像したり、
年表をつくったり、
現在の性格への過去の影響を分析したり、
いわゆる心理学者的なことをするのは、
性格設定表を作るためではなく、
その人物の無意識を、
自分の無意識の中にインストールするためである。
その人物がある事態に遭遇したとき、
こう反応する、というのが、
理屈ではなく、無意識から出てこないと、
スラスラと書けるものではない。
たとえば、
あなたのよく知っている人物、
友人や親や恋人が、
ある文脈に置かれたとき、
言いそうなことや、しそうなことは、
なんとなく予測できるだろう。
それは理屈ではなく、
「なんとなく分かる」という感覚のはずだ。
我々人間が他者を理解するとき、
理屈で理解するのではない。
自分の自我と相手の自我が溶け合った、
ひとつの無意識内に作り上げた、他者、
という概念を操る、と僕は考えている。
自分の親しい人を頭のなかで動かすとき、
それは理屈ではなく、
それまでの膨大な経験から抽出した、
その人っぽさという概念で駆動させるはずだ。
たとえば物真似などはその典型である。
なんだか難しい話をしてるようだけど、
理屈ではなく、感覚でそれをやる、
ということだけが確かだと思う。
つまり、言葉を変えていうと、
その人物(実在だろうが非実在だろうが)
の無意識を、我々の無意識の中につくる、
という感覚である。
「性格設定表にこうあるから、こうしなければならない」
という執筆は、遅く、理屈で固めすぎて、
人間の柔軟性を表現できない。
ルールで動くロボットでしかない。
物語の中の人物は、
もっと人間らしく動く。
漫画や演劇やラノベなら、誇張した人間像でも構わないが、
映画は別だ。
リアリティーある、実在の人のように描く必要がある。
それは、リアリティーっぽいルールをいくら設けてもダメで、
無意識で書くレベルでなければならない。
で結局、自分の無意識の中に、
その人物の無意識が、生きてるかどうかってことになる。
小説を書くと、その人の無意識っぽさは、
肉体ではなく思考だと言うことが、なんとなく分かってきた。
映画のシナリオでは、肉体と焦点と動機と行動の中に、
その人の無意識っぽさがあるような気がする。
つまりは性格設定表なんて、
膨大なインストールすべき情報の、表面的な触りに過ぎず、
精々1/100程度ってことだ。
あなたが人物を上手く書けないのは、
その人物の無意識とシンクロしてないからだ。
その人物の無意識を、自分の無意識の中にインストールする有効な方法は、
現実と同じで、「彼(彼女)と話をすること」である。
肉声でぶつぶつ話をするのがベストだが、
気味が悪いので人前ではやめよう。
頭のなかでその人と世間話をしたり、
自己紹介をしたり、昨日あったことや、
昔あったことを、ただダラダラと話すといい。
そのうち、相手の発言や行動が、なんとなく(友人のように)予想できるようになってくる。
そうしたらしめたもので、
また別の人物についても同様にやる。
二人以上頭のなかに呼び出せるようになったら、
その飲み会の席から自分が退出するといい。
勝手に二人以上で喋り始めるはずだ。
あとは、彼らに出番と文脈と目的を与えれば、
勝手に冒険をはじめるだろう。
それをあなたが記録すればいいだけだ。
このやり方は、恐らく精神分裂症ぎりぎりを引き起こすだろう。
普段の生活に帰ってこれる唯一の方法は、
ハッピーエンドに帰着させて、
彼らと無事別れることだけである。
従って、完結出来る長さでだけこの方法をした方がいい。
一日で書ける分量で完結させたほうが、自分へのダメージは最小だ。
何日もかけて書く場合、無事に帰ってこれる保証はしないよ。
何年も何年も書くような、その人物への固執は、
もはや自分の別人格になっちゃうよね。
多分、そこそこの長さのものを書いた経験があれば、
前半は設定表のようなキャラだったけど、
後半はキャラが生きてるようになり、
勝手に動くようになった、
という経験をした人は多いだろう。
それは、そのキャラとたくさん話して、
そのキャラの無意識が、自分のなかに出来上がったからだ。
僕は、これを第一シーンからやるべきだと思っている。
(だからプロは、書きはじめるまでに時間がかかるのである)
2016年03月05日
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