人は、分かり合う時は無言だ。
つまり二時間もベラベラ喋るストーリーなるものは、
分かり合うまでの過程なのだ。
物語とはコンフリクトである。
つまり、他人と他人が、ぶつかり合うことだ。
ざっくりいうと、揉めたり喧嘩したり、言い合いをすることだ。
何故そうするかというと、
性格の不一致だったり、
立場の不一致だったり、
目的の不一致だったり、
理想の不一致だったりするからである。
ざっくりいうと、他人だからだ。
他人は、自分と、
感じ方も、考え方も、経験も、反応も、対応も違う。
それが感情的にも理屈の上でも、
違うからこそ、
人と人はぶつかる。
呉越同舟だろうが、味方の中だろうが、敵の立場だろうが。
集団が全員同じ意思を持っているのは、
蟻とか蜂だけかも知れない。
同じ集団内ですら、
人間というものは個々人で、何もかも違う。
あなたの家族や、会社や、部署や、部活などを思い出せば明らかだ。
それら、異なる個々人が、
それぞれの都合を優先するがゆえに起こるぶつかり合いを、
コンフリクトという。
物語は、これが起こり、収まるまでを描く。
コンフリクトはひとつだけでなく、
大抵複数ある。メインとサブがある。
直接解決、間接解決、連鎖的解決、一気解決、未解決、
などなど、物語の種類によって違うが、
最終的に、
異なった個々人は分かり合う。
分かり合うときは、人は無言である。
アイコンタクトをすれば、相手の意志が分かるレベルになるものだ。
その為に、人は行動したり言葉を発するのかもしれない。
異なる自我同士が分かり合う過程こそ、
発話や行動だ、と考えると、
ラストシーンの無言の分かり合いに向けて、
異なる個々人が、互いに理解しようとする過程が、
極論すれば台詞やト書きなのである。
それは必ずしも和解を意味しない。
ラブストーリーなら、和解に至るだろう。
ラブストーリーのラストが無言でするキスなのは、その象徴だ。
だが、「あとは互いに殺し合うしかない」という同意に至る物語も沢山ある。
そうなれば、お互い銃を持ち、目があって互いの意思を確認したら、
あとは引き金を引くだけになるだろう。
どんな話でも、
最後は目と目で通じ合う、分かり合いに達する。
混ざりあって一体となり固まったコンクリートを逆再生して、
粉と水に分解するまでその過程を逆算して、
互いが最も遠く離れた状況から、物語をはじめればよい。
きっと彼らは、最終的には分かり合うために、
文句を言ったり相手を妨害したり、
工夫したり暴言を吐いたり、
隠したり晒したり、
攻撃的になったり落ち込んだりするだろう。
それが物語だ。
2016年03月06日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック