2016年03月06日

人は、分かり合う時は無言だ

人は、分かり合う時は無言だ。
つまり二時間もベラベラ喋るストーリーなるものは、
分かり合うまでの過程なのだ。


物語とはコンフリクトである。
つまり、他人と他人が、ぶつかり合うことだ。
ざっくりいうと、揉めたり喧嘩したり、言い合いをすることだ。
何故そうするかというと、
性格の不一致だったり、
立場の不一致だったり、
目的の不一致だったり、
理想の不一致だったりするからである。
ざっくりいうと、他人だからだ。

他人は、自分と、
感じ方も、考え方も、経験も、反応も、対応も違う。
それが感情的にも理屈の上でも、
違うからこそ、
人と人はぶつかる。

呉越同舟だろうが、味方の中だろうが、敵の立場だろうが。

集団が全員同じ意思を持っているのは、
蟻とか蜂だけかも知れない。

同じ集団内ですら、
人間というものは個々人で、何もかも違う。
あなたの家族や、会社や、部署や、部活などを思い出せば明らかだ。


それら、異なる個々人が、
それぞれの都合を優先するがゆえに起こるぶつかり合いを、
コンフリクトという。

物語は、これが起こり、収まるまでを描く。
コンフリクトはひとつだけでなく、
大抵複数ある。メインとサブがある。
直接解決、間接解決、連鎖的解決、一気解決、未解決、
などなど、物語の種類によって違うが、
最終的に、
異なった個々人は分かり合う。
分かり合うときは、人は無言である。
アイコンタクトをすれば、相手の意志が分かるレベルになるものだ。

その為に、人は行動したり言葉を発するのかもしれない。

異なる自我同士が分かり合う過程こそ、
発話や行動だ、と考えると、
ラストシーンの無言の分かり合いに向けて、
異なる個々人が、互いに理解しようとする過程が、
極論すれば台詞やト書きなのである。

それは必ずしも和解を意味しない。
ラブストーリーなら、和解に至るだろう。
ラブストーリーのラストが無言でするキスなのは、その象徴だ。
だが、「あとは互いに殺し合うしかない」という同意に至る物語も沢山ある。
そうなれば、お互い銃を持ち、目があって互いの意思を確認したら、
あとは引き金を引くだけになるだろう。



どんな話でも、
最後は目と目で通じ合う、分かり合いに達する。
混ざりあって一体となり固まったコンクリートを逆再生して、
粉と水に分解するまでその過程を逆算して、
互いが最も遠く離れた状況から、物語をはじめればよい。

きっと彼らは、最終的には分かり合うために、
文句を言ったり相手を妨害したり、
工夫したり暴言を吐いたり、
隠したり晒したり、
攻撃的になったり落ち込んだりするだろう。
それが物語だ。
posted by おおおかとしひこ at 14:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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