2016年03月06日

サポートがいたとしても、一人で解決せねばならないピンチを作れ

経験則。

主人公たった一人で問題に取り組むと、
たいした事は出来ない。
人は協力するから、大きな問題を解決出来る。
だから主人公には味方をつけるものである。

ところが、味方がいると、
うっかりすると主人公はメアリースー化しがちなのだ。


それは、強力な味方であればあるほど、
そいつらに甘えてしまう心理が働くからである。

なんなら、そいつらに見せ場をやらせようとして、
主人公がその盾に隠れてしまうようになってしまう。
主人公が急にのび太化し、ドラえもんに頼る心理になってしまうのだ。

これを自覚したら、一端主人公をつきはなそう。
味方と協力して動いている最中でも、
主人公が偶然一人になってしまい、
一人で解決せねばならない場面をつくろう。
あるいは、味方がゴール前に既に準備していて、
主人公のパス待ちになっていてもいい。
決定打はその味方がやったとしても、
主人公が一人でしたことは、
その過程の重要部分であればよいのだ。

メアリースーとは、要するに、
ドラえもんに助けて欲しい癖に、
オイシイ所だけは自分でやりたい症候群である。
だから、ラストまで全部味方を活躍させて、
最後の最後のシュートだけ主人公にさせがちだ。

それは映画的物語ではない。
映画とは、行動(目に見える行為)によって
感情移入と焦点をつくる、三人称形式である。

感情移入と焦点は、常に主人公にロックオンされるべきだ。
味方がいないのが是ではない。
味方がいたとしても、
主人公が怠け者であってはならないと言うことである。
勿論主人公が万能であるわけない。
だから他の能力がある味方が必要だ。
だが、主人公がその中に埋もれてはならないということだ。

ラストだけ出てくるのではなく、常に、である。


サッカーに例えれば、
常に主人公はパスを繋がなければならない。
それがラストのシュートである必要はない。
(少年漫画はシュートまでやるけど)
主人公一人でしたことが、
確実にチームの為になればよいだけだ。
それがチームプレイだ。

メアリースーは、プレイに参加せず、
声だけで味方を動かして、
ロスタイムの最後の最後だけシュートを打たせてもらうことと等しい。



時々、主人公が一人でピンチになり、
一人で解決する場面をつくること。
前半でも中盤でも後半でもだ。
ひょっとしたら味方もそういう場面がいるかも。
そうやって、主人公たちは対等な仲間になってゆくかも知れない。

話を積極的に動かすのは、主人公だ。
傍観者ではない。
posted by おおおかとしひこ at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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