2016年03月11日

「ピアフ」劇評

大竹しのぶ(以下敬称略)の凄さは、強調してし過ぎることはない。
主演女優全てに寄りかかった演劇とも言える。
(助演女優もとてもいい。売春宿の親友と、マドレーヌがいい)

一夜明けて冷静になったので、感動の構造を分析しておく。

以下ネタバレ。


要するにエディットピアフのスキャンダル人生を、
面白おかしく描いた悲喜劇だ。

骨は、ハンサムな男をとっかえひっかえして、死んだ、
というだけである。

その男が有名人だっただけで、
(シャルルアズナブール、イヴモンタン、ボクサーの人)
彼女の歌の上手さが突出していただけである。

歌が上手い、国民的歌手、というだけで、
歌唱シーンに寄りかかったミュージカルになりうる。

だけどジャンルがシャンソンだから、
それは彼女本人の悲喜劇の人生を歌うことになる。

こうして、構造は、日本流の「歌物語」になる。
「色々あって、詠める歌」と最後に歌を詠み、
万感の思いをその歌に乗せるやり方だ。


それが一曲じゃなくて、
エディットピアフの人生の代表曲17曲で埋め尽くされるのだ。
悲喜劇人生と相まって、号泣する仕組みである。

似たような構造は、たとえば美空ひばりでも出来るかも知れない。
浮き名は流したんだっけ。親の世代ぐらいなのでよく知らないが。



エディットピアフの人生を、
単にハンサム男をとっかえひっかえしただけでなく、
深く彫りこむ方法。

1. 売春婦出身で、ストリートで歌ってた。
2. 薬づけ。
3. 自動車事故から、なんとか生還。
4. 一番愛した男が、飛行機事故で別れなければならなかった
5. 戦争に巻き込まれ、慰問公演でスパイ活動

あたりの、文春が飛び付きそうなスキャンダラスなネタに、
満ち満ちていることである。

薬づけとか、売春婦出身だけで一本作れそうなのを、
これでもかとぶちこむことで、不幸のてんこ盛りを作り上げている。
飯島愛も、いずれこういう伝記映画になるかも知れない。

このてんこ盛りは、事実を元にしてはいるが、
表現は極めて大袈裟だ。
売春婦出身かどうかについては、公式には不明らしい。
しかしこれが彼女の(演劇上の)キャラクターを決定づけている。
「ホームレスのババアみたいな」と本人が言っていたが、
それが彼女の自己認識である。
それをベースにすることで、
「観客より下の人間が成り上がる」という構造が出来上がる。
詳しくは過去記事に書いたが、
同情は感情移入の誘引薬だ。
庶民が成り上がる、成り上がってもまだ庶民、
という感覚は、私たち観客との強い絆をつくる。

とても上手い現実の改変である。


つまりこれは、
高尚なストーリーでもなんでもない。
不幸な悲喜劇人生を覗き見する、
極めてゲスな見世物である。
使う言葉が下品だからではない。
自分より下の人間の不幸を覗き見する行為が下品なのだ。

しかし掃き溜めをただ覗いても詰まらない。
そこから鶴が飛び立ったから、みんな見に来るのである。
それは何かといえば、
言うまでもなく歌である。

不幸な彼女の生い立ちや生きざまを、
歌に全て託すという、
その生き方そのものが、鶴であり見世物である。

大竹しのぶという女優に寄りかかった、というのはそういう意味だ。

「ピアフが乗り移った」という劇評も見た。
果たしてそうだろうか。
YouTubeで本人の「愛の讃歌」を見た。
しのぶのものとは随分違う。
「乗り移った」というのがイタコのようにソックリに演じる、
ということならば、しのぶは物真似芸人落第である。

しのぶはしのぶなりに、
ピアフがそこで生きて、魂の底から絞り出すように、
歌っていただけだと僕は思う。

あのダミ声から、歌うときだけ澄んだ声になる、
その計算は凄い。喉がどうなってんだろうね。
技術的にいつかボイトレの人にでも聞いてみるか。
俺最初、一ヶ月公演して喉の調子悪いのかと思ったぐらいだもん。
一曲目はじまったときに、それ芝居かよ!って感動したわ。


さて、しのぶに飲み込まれないように、
物語の構造を俯瞰しよう。

不幸のてんこ盛りというコンセプトから、
基本は「起伏」で作られている。
不幸が幸福になり、幸福の絶頂から不幸が起こり、
という構造だ。
三幕構成もへったくれもない。
時々「それ知ってる!」という要素が入ることで、
話が持つ仕組みになっている。
マレーネディートリッヒとかね。
(宝塚の歌の上手さよ!聞いてるだけで至福の贅沢だ)

三幕構成もなにもない、単純な浮き沈みだけなので、
テーマを示す構造もなにもない。
果たしてこの物語のテーマはなんだろう。
奔放って素晴らしい、かね。
つまり怒濤のように生きることは素晴らしい、という、
ただそれだけのために、
詰め込んで詰め込んで詰め込むのであろう。
ひとつひとつを味わう暇もなく、
舞台転換の凄い速さで、
激動に観客ごと巻き込んでいるのだろう。
何故なら我々が落ち着いて考えられるのは、
スローテンポの、歌の時だけだからである。

つまりは全てを歌に託す、そういう構造だ。


お話はたいしたことない、と断言してよい。
「速い飛行機で帰ってきてね」だけが効果的な伏線であった。
よく考えればただの死亡フラグだが。
あのベッドの中での子供のような甘えぶりは、
流石の天下一品であったねえ。
朝起きて誰もいない感じとかも、とても良かった。
「私はひとりぼっち」という台詞を繰り返し使うことで、
同情という感情移入を効果的にしている。

つまり我々は全員、
ピアフという女と寝ているようなものだ。

そういう脚本であり、
大竹しのぶは、計算づくで、我々と寝ているような感覚を、
作り上げたのである。
恐るべき天才の所業である。


ピアフという女と寝る、
そういう感覚が、この芝居の全てである。
全裸やセックスなしに。
歌で。

恐らく脚本を書いた男は、
並の音楽劇のうちの一本のレベルだったはずだ。
こなし仕事の一本に過ぎず、
本気で作る余力は別の大切な作品に残したはずだ。
女優が、ここまで化けるのは、計算に入っていなかっただろう。
いわばこの作品は、
平凡な脚本を、女優という情念が化けさせたのである。


僕は、優れた脚本と演出が物語の作者であるべきであり、
俳優とともに作っていくものだと考えている。

ピアフは、女優に乗っ取られた作品である。
大竹しのぶがこの作品の作者である、
といっても過言ではない。

我々はピアフという女と寝たのではない。
ピアフを演じる大竹しのぶと、寝たのだ。


つまりは、これは脚本の敗北の、ひとつの記録だ。
演出がするべきことは、
それを分かって冷静に引き算をすることだけだろう。
posted by おおおかとしひこ at 09:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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