演劇「ピアフ」を見ていて思ったことは、
神を信じてる人間って楽でいいなあということだ。
現実がいかに理不尽だとしても、
神が祝福してくれればオールクリアになるからである。
つまり、理屈の通らない不条理に、
条理を一本通すことができる。
あなたの話がまとまりがなく、
理屈でうまくいかないのなら、
「全ては神の意思だったのだ」と誰かに言わせてみてはどうか。
途端に話がまとまるはずである。
つまり、神は小道具だ。
現代は、神なき時代である。
S学会やKの科学が宗教映画をつくる以外は、
基本的に宗教色はないものとして作る。
(キリスト教の信仰をモチーフにした映画も、ときどきあるけど)
だから、条理を通すことがものすごく難しい。
現代の理屈でおかしくなく、しかもとんでもない話は、
年々難しくなっている気がする。
(たとえばとんでもなさを、突飛な荒唐無稽ではなく、
狂ってる人間に求めたりする)
荒唐無稽でとんでもない話だとしても、
神様という条理を通せばトンデモにも一本条理が通る。
それが神という小道具だ。
「サイン」は実はそういう構造をしている。
あの緑の宇宙人で台無しにならなければ、傑作の候補だった。
「このあとめちゃくちゃセックスした」と同じくらい、
なんにでも
「それはすべて神の意志であり、彼らは祝福されたのである」
はくっつくのではないかなあ。
ということで、
意識的に神様という小道具を使うのは、有効かもしれない。
(「ピアフ」の凄みのある台詞から神様を抜いたら、結構成立しない気がする)
麻薬なので、使い過ぎは頭をバカにするだろうけど。
2016年03月11日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック