2016年03月11日

「神様」は、現実を物語化する小道具

演劇「ピアフ」を見ていて思ったことは、
神を信じてる人間って楽でいいなあということだ。


現実がいかに理不尽だとしても、
神が祝福してくれればオールクリアになるからである。

つまり、理屈の通らない不条理に、
条理を一本通すことができる。

あなたの話がまとまりがなく、
理屈でうまくいかないのなら、
「全ては神の意思だったのだ」と誰かに言わせてみてはどうか。
途端に話がまとまるはずである。

つまり、神は小道具だ。


現代は、神なき時代である。
S学会やKの科学が宗教映画をつくる以外は、
基本的に宗教色はないものとして作る。
(キリスト教の信仰をモチーフにした映画も、ときどきあるけど)

だから、条理を通すことがものすごく難しい。
現代の理屈でおかしくなく、しかもとんでもない話は、
年々難しくなっている気がする。
(たとえばとんでもなさを、突飛な荒唐無稽ではなく、
狂ってる人間に求めたりする)

荒唐無稽でとんでもない話だとしても、
神様という条理を通せばトンデモにも一本条理が通る。
それが神という小道具だ。
「サイン」は実はそういう構造をしている。
あの緑の宇宙人で台無しにならなければ、傑作の候補だった。


「このあとめちゃくちゃセックスした」と同じくらい、
なんにでも
「それはすべて神の意志であり、彼らは祝福されたのである」
はくっつくのではないかなあ。

ということで、
意識的に神様という小道具を使うのは、有効かもしれない。
(「ピアフ」の凄みのある台詞から神様を抜いたら、結構成立しない気がする)
麻薬なので、使い過ぎは頭をバカにするだろうけど。
posted by おおおかとしひこ at 18:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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