物語は変化を扱う。
といっても、外見上の変化ではなく、
人の内面の変化である。
(勿論、内面の変化が外見上の変化として現れるから、
外見上の変化は内面の変化の表現としてよく使われる。
更に極端なのは、変身ものや仮面ものである)
この内面の変化は、
小さなものから大きなものまで、色々ある。
小さな変化は、たとえばこうだ。
ツンケンしてた態度を、反省した。
不注意だったのを改めようと思った。
誤解が解けて、仲良くなった。
ほとんど小学生の作文のようだね。
でも5分から15分のドラマでこういうのを描くのは、
なかなかに難しいよ。
たとえば、
娘が大学に出て寂しいが、それは誇らしいことと思う
なんて小さな心の変化を、
NHK「娘が出ていった部屋」で60秒、30秒で描いている。
たったこれだけのことでも、
ストーリー次第ではぐっと来る話を書くことは可能だ。
中くらいの変化にはたとえば、
双子の兄のコピーであることにコンプレックスがあったが、
兄の死で「二人でオリジナルだった」と気づく(風魔5話)
片思いが破れてはじめて自分が子供だったと気づき、
大人になりたいと思い直す(てんぐ探偵妖怪「二番」)
などがある。
大きな変化には、
惨めで自分が嫌な男が、誇りを持てる自分へ変わる(ロッキー)
コミュ障だったオタクが、僕には帰れるところがあると気づく(ガンダム)
などがある。
容易に想像できるように、
大きな変化ほど、長い尺が必要だ。
その変化にリアリティーがあり、
説得力あるドラマになることが必要だからだ。
小さな変化なら、ちょっと心の持ち方を変えれば変化できる。
だが人間というものはいい加減だから、
明日になれば元に戻るかも知れない。
それが、もとに戻らないほどに影響を受けたとき、
変わった、といえるようになる。
それは、そういう影響を受ける「経験」をすることでだ。
第三者がいくら説教しても人は変わらないだろう。
本を読んだりハウツーを読んでも、人は変わらないだろう。
本人がある日「悟った!」と気づいても、たいして変わらないだろう。
人が変わるのは、経験をして、である。
変化ありきで経験を考えつくのだろうか、
経験ありきで変化をあとづけするのだろうか?
どちらもあり得ると思う。
てんぐ探偵では、変化(心の闇→ポジティブな心)ありき
で、経験を思いつく作り方をしている。
それは妖怪ありきだからだ。
NHK「娘が出ていった部屋」では、
最終変化、「娘の受信料を親が進んで払う」に帰着する気持ちの変化を逆算、
そういう経験は何か、と考えた。
これは多くのCMの作り方である。
商品やサービスは決まってるのだから、
逆算で、変化と経験を考える。
(てんぐ探偵でも、妖怪退治というパターンを踏襲する以上、
変化の大枠は最初から決まっているが、
細かい部分は経験を考えながら考える)
風魔は逆だ。
原作の大まかなストーリーが決まっているから、
「経験すること」自体は変えられない。
たとえば項羽が生き延びることはないし、
小龍ではなく劉鵬が白虎を倒すべきではない。
従って、この経験を経て得られる、
気持ちのぐっと来る変化は何か?
という視点でストーリーをとらえ直しているのである。
変化は、変化前と変化後のセットだ。
だから変化前Aと変化前Bという、違う変化前を経験に代入すると、
同じ経験でも変化後は異なるだろう。
つまり、変化前をどう設定するか、という創作になる。
「双子の兄が倒れ、弟が復讐する」という経験は変わらない。
このときたとえば、「兄を愛していた弟」という変化前を創作しても、
変化は描けない。
復讐の強い動機にはなれど、復讐が終わってからは、
「寂しいよ兄さん」にしかならないからである。
これは平凡だ。
経験を経ての、劇的な内面の変化を描けていないからである。
(舞台版風魔は、このレベルのドラマしかないので、
僕は嫌いなのである。折角高度なことをしたのに台無しにされたからだ。
尺が短いという言い訳は出来るだろうが)
ドラマ版のストーリーは、経験を変えることなく、
変化前と変化後を創作することで、
その経験を120%生かした、劇的な変化を描くことに成功している。
(ここまできちんと原作の再解釈を分析出来てる人はいるのかなあ)
変化と経験のペアこそが、
ストーリーの核である。
あなたがストーリーを書けないのだとしたら、
小さな変化と小さな経験をまず考えること。
大きな変化と大きな経験を考えつくことは難しいからだ。
自分の大きな経験と変化を書き付けることは比較的簡単で、
それは手記や経験談と呼ばれ、
「人は誰しも小説が一本書ける」とよく言われることの根拠だ。
自分のしてない経験を創作して、
自分のしてない変化を創作することが、
ストーリーを創作する、ということである。
もっとも、ちょいちょい自分の経験談が顔を出すことになる。
リアリティーがあるからだし、
それ以上リアリティーがあることを思いつかないからでもある。
これは経験の切り売りといって、
あまり推奨ではない。
すぐ想像がつくように、作家を続ければ続けるほど、枯渇するからである。
自分の経験を書き尽くしてみずみずしさを失う作家は、
わりと多いんでない?
燃え尽き症候群というか、二本目が書けない人というか。
あなたは、変化を創作しなければならない。
あなたは、経験を創作しなければならない。
それがストーリーを創作するということ。
小さな変化や経験からスタートして、
中くらいの変化と経験もやり、
大きな変化と経験を作ったりしよう。
小や大は、偉さとは関係がない。
(長編ほど偉いという風潮はあるが)
大のほうが大変、というだけに過ぎない。
もしあなたがストーリーが書けないと悩んでいるのなら、
このように考えたこともないからではないか?
脚本教室では、「自分を書け」なんてよく教えたりする。
それは、どうせ創作レベルが低いんだから、
リアリティーのある内容を切り売りして、
創作との距離を測れ、ということを言わんとしている。
だけど、そうすると「すごい経験した」奴が優勝、
という、創作とは程遠い場になってしまうのである。
それは本末転倒だ。
変化と経験の「創造」を、日々考えなくてはならない。
それに気をつけて映画やショートを見るのも、とてもよい勉強である。
2016年03月13日
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