2016年03月17日

何故私たちは戦うのか

私たちは戦いが好きだ。
自分がやるかどうかはおいといて、
戦いを見ることが好きだ。

戦いとは、戦争や殺し合いだけでなく、
スポーツや恋愛の行方や、ドラマの行方でも同じである。

なぜだろう。


戦いそのものに機能特化したものは美しい。
戦闘機は美しい。
スポーツマンも美しい。
斧や日本刀も美しい。
職人の道具も美しい。

戦いの合間も美しい。
戦争のクリスマス休戦も美しい。
執筆の途中の煙草も美しい。
恋愛ものの中での友情エピソードもきらきらしている。
あるいは、戦闘中に翻る長衣の裾すら美しい。

戦いの瞬間は言うまでもない。
ボクシングのノックアウトの瞬間。
男女の運命の出会い。
人間ドラマの決着の瞬間。
車のエンジンをスタートさせる時。


我々は戦いが好きだ。
なぜか。


命を賭けるからだろう。

それはつまり、失敗すれば死ぬからだ。
全ての手段を使ってでも生き延びなければならないからだ。
生き延びて、戦いに勝つことで、
自分の意味を示さなければならないからだ。
負ければ死、勝てば己の価値。
そのギリギリのエッジにいること。
それが、人を美しくさせる。

戦いは、つまりは命そのものである。
だから動物ドキュメントものは、泣ける。


で。
私たちは平和だからこそ、それを見たがる。
ギリギリで生きている人は、
そんなギリギリのエッジは見たくない。
とりあえず死なない安全な人たちが、娯楽を見たがる。
また、死ぬかも知れない人は、必ず戦いに勝利するフィクションを見て、
希望を持って、戦いに戻れるかも知れない。

現実がどうであれ、
フィクションの中では、
ギリギリのエッジでの戦いを描く。

戦争や殺し合いでもいい。
スポーツや恋愛でもいい。
変なゲームでもいいし、変な人間関係のクリアでもいい。
深刻な人間ドラマの解消でもいいし、
軽妙な解消でもいい。
子供の限界内の話でも、大人の権力範囲でもいい。

どんなものであれ、
負ければ死、勝てば己の価値。
そういう「戦い」であれば、
それはとても面白い物語になる。

負けてもチャンスが潰れることなく、
勝ってもなんだかうやむやになる、
そういう話はぬるい。詰まらない。

逆に、
本質的にギリギリのエッジの戦い以外に、
物語なんてあるのだろうか。


我々は戦いが好きだ。
それは命そのものである。
その命の価値、その命が存在する意味、それがテーマだ。

我々は、戦いすなわち物語の、何が好きなのか。
命の存在する意味を、知りたいからではないだろうか。
だから、他人の命の存在する意味を見て、
何かを思いたいのではないだろうか。
posted by おおおかとしひこ at 12:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック