「今恋愛してないから、恋愛ソングに全く共感出来ない」
なんてネットの書き込みがあった。
これが共感の限界だ。
共感は、自分と近い事に起こる。
(うまく行った)感情移入は、自分と遠くても起こる。
共感に技術は必要ない。
あるとしたら、
多い層の共感を当てる力だろう。
今恋愛してる人が多ければ恋愛は共感されるし、
少なければリア充爆発しろが共感されるだろう。
あるいは、恋愛なんてどうでもいいやという草食が共感されるかも知れない。
それは、正確にはマーケット調査をしなければ判明しない。
優秀なクリエイターならば、
調査などせずとも、世の中を見ていれば、
今何となくの時代の空気など読み取れるものである。
(プロになって分かったのだが、
その空気の流れを意識して生きている人間は、
そうだな、一割くらいかな)
いずれにせよ、共感は脆い。
自分がそうでなければ見向きもしないからだ。
好きな芸能人は○○ちゃん、となったら、
その人に共感しているだけで、
その人が嫌いになったら見向きもしないものだ。
(だってオハスタやモデルしてたベッキーの、
オシャレな感じに昔みんな共感してた癖にね)
感情移入は、そうではない。
何度か書いているが、
自分と遠い立場の、
自分と遠いビジュアルの、
自分と遠い性格の、
自分と遠い出身の、
自分と遠い年齢や性癖の、
自分と遠い人にも起こる。
浅い共感のメカニズムではない、
深いメカニズムである。
感情移入は、その人が陥ったシチュエーションの理解からはじまる。
そのシチュエーションに興味をもち、
そのシチュエーションを理解することが前提だ。
(このため、どうしてもその理解の為に、
始まってしばらくはそのシチュエーションの説明が不可欠である。
こういう訳で、一幕には説明が必要だ)
そのシチュエーションは大抵大変で、無茶で、ルーチンから外れたことである。
つまりは非常事態だ。
その、自分と遠い人が、そのシチュエーションに反応して対応する。
それを見た我々は、思わず思うのだ。
「そのシチュエーションに、自分がいたとしても、
彼(彼女)と同じ反応、行動をするだろう」と。
それは、単なる共感以上の、
深い部分での共感である。
たとえば、山手線のホームから転落した人が目の前にいたら、
助けるだろうか?
殆どの人は怖くて助けないかも知れない。
でも実際に落ちた人を助けて、轢かれて死んだ外国人旅行者がいる。
そいつは馬鹿だ、と理性では思うかもしれないが、
我々の本心では、
「自分が助かる保証があれば助けたい」
ではないだろうか。
「自分はそういうシチュエーションに陥ったことはないが、
そのシチュエーションにもし陥ったら、
出来ればそうしたい」
と思ったら、
それが感情移入である。(正確にはそのはじまり)
感情移入は、「もしも」を想像する力から生まれるのだ。
「もしも」なのだから、自分と遠くて当たり前だ。
これが、共感(自分と同じ)と全く違うところだ。
あなたは、主人公や登場人物に、共感させようとしてないか?
それは間違いだ。
感情移入をさせよう。
あなたは、自分の主人公や登場人物に、共感しているか?
それは間違いだ。
感情移入するべきだ。
あなたは、自作他作とわず、登場人物に、
共感しているのか感情移入しているのか、
冷静に自分を分析観察しているだろうか?
「共感できないけど、感情移入できる」がフィクションの目指すべき姿である。
「共感も感情移入もする」は、
共感したことで感情移入と混同しているかもしれない。
「共感できるが、感情移入できない」(レア)、
「共感できないし、感情移入できない」は、
屑であり、不合格である。
つまり感情移入は技術を伴う。
共感は、時代の嗅覚のみの、感覚でしかない。
で、議論は最初に戻る。
今恋愛してなくても、恋愛してるように思わせるのが、感情移入。
Jポップが何故廃れたのか。
共感ばかり狙っていたからだ。
歌謡曲は、感情移入の音楽だったから、大衆に受け入れられたのだ。
(歌謡曲には必ず一幕と同様の、設定部が存在する。
ニューミュージック以降は、それがなく、
共感する気持ちだけを抽出したのである。
共感マーケティングだった、というわけで、
それは共感がなくなれば終了なのである)
2016年03月18日
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