2016年03月20日

的確にプロットを書くことは、意外と難しい3

このことは、
「同じニュースを伝える各紙で、表現が異なる」
という現象で観察することができる。


起こった事実はひとつだ。
しかし書く人によって、
文章の展開が違うのである。
フォーカスするところも違ったり、
アレを入れている人といない人が出たりする。

これは、言語というものが、そもそも、
「起こったことを一意に伝える方法がない」
ということに起因すると僕は思う。

理系の言語にそれはない。
定理や定義ならば、ほぼ一意に定まる。
論文でも、一意とまで言わないが、
文章が乱れたりすることはない。
そもそも、そういう自然言語の曖昧性を取り除いたものが、
数学や物理をベースとする理系言語である。

ところが、日常を記述する場合、
同じ文字数でも一意な表現はない。
(人工知能におけるフレーム問題)
同じニュースを伝える、各紙の異なった文章が存在する。
また、同じ人が別の日に同じニュースを同じ字数で書いても、
恐らく違う文章が出来上がるだろう。

文章は、あくまで「認識」を伝えるための道具だ。
それが滅茶苦茶に書かれていない限りにおいては、
同じ認識を伝えるのに、無限(というと大袈裟だが)のバリエーションが存在するのである。
(ある認識と別の認識が同一かどうか確かめる手段は存在しない。
そこで、言語を交わす、つまり話しながら、
どうやら同一らしい、というところまで詰めていくのだ。
仕事上のミッションややり方の認識、付き合うカップルの価値観などなど。
僕はメールなんて情報量の低いものでこれをやり取りするのは馬鹿だと考えている)


ということで、
プロットの最適な一意表現は存在しない。

これが、プロットが的確かどうか、という判定基準のなさを保証する。
なかなか的確だ、まあまあ的確だ、あまり的確ではない、
程度にしか判断できず、それは判定者や日によって揺れるということだ。

そういうわけで、的確なプロットを書くには、
相当な慣れが必要なのである(判断基準も含めて。
ほとんどの人は判断するのも自分なので、
書くことと判断することの、
両方を自学しなければならない)。

こんなものを初学者にやらせても、何も得るものはない。
最初に習うことだから、大事なことなんだな、
ということを記憶させる以上の意味がない。



さて、では初学者は何をやるのがいいのか。
写経(書き写すこと)じゃないかねえ。
完結している5分から15分程度を、ひたすら書き写すことがいいと思う。
タイピングは勧めない。
フォーマットに合わせて整字させる手間が邪魔なノイズになり、
純粋な学習から遠ざかる。
手書きで分かってきたらタイピングを「別に」学ぶことは構わない。

問題はそのお手本が、あまりパターンがないことだね。
10本もやれば、なんとなく分かってくるものだけどね。
(僕の短編は何本かここに公開しているが、偏りがあるし、
最適な教材ではないと思うよ)
30分番組ならもっと数があると思うけど、
初学者に30分は頭脳的にキツイ。


5分から15分の書き写したものについて、
プロットをペラ一枚くらいで纏める練習をすると、
ようやくプロット慣れをするだろう。

その時、
「まだ書いてない話のプロットを書くこと」のイメージが、
ようやく出来るのではないだろうか。


的確なプロットは、最後まで話が出来ているから書けるのだ。

プロットが書けないなんて初心者はよく言うが、
そもそも話を最後まで書けない癖に、
プロットが書けるわけないやろ、と僕は思う。
ということで、上のやり方を試してみてね。

勿論、プロットを途中まで書くことで、
構想が整理される、という効果があるので、
途中でもプロットを書き下すことに、
意味がない訳ではない。
(でもそこから最後まで書けない、という現象は発生するよ)
posted by おおおかとしひこ at 12:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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