ついでに、内的問題ベースの作劇も書いておく。
主人公の内面の問題が、どのように解決するのか、
を思いついた時にこのやり方は有効だ。
まず、人間の内面はカメラに撮れないので、
カメラで写せる内容で、
どう内的問題を示し、どう問題解決を示すかを考える必要がある。
気をつけるべきことは、
たとえば内的問題を「難しく落ち込んだ表情」で示し、
解決を「スッキリした笑顔」で示すのは素人だ、ということである。
(ダメなCMにはよくあるパターンだ)
主人公の内部で勝手に内面が解決して、表情変化しただけでは、
我々観客は何一つ面白くないからである。
ここで賢明なる諸君は「窓辺系」を思い出すだろう。
メアリースーの典型パターンである。
過去記事参照のこと。
これを避けるには簡単だ。
「外的問題と、その面白い解決」を用意すればよい。
面白い外的問題が起こり、それを解決する過程で、
内的問題の克服をするようにすればよい。
正確に言うと、
外的問題の解決によって、我々観客は、
主人公の内的問題の解決を読み取る、のである。
「愛しのローズマリー」をよく例に出すが、
内的問題は「女は顔だ」であり、解決は「女は心だ」である。
この古典的かつ普遍的な問題を解決するため、
この映画では独特の外的問題を用意する。
「変な催眠術をかけられ、内面の美醜が外面の美醜に見えるようになってしまう」
というものだ。
この外的問題のために、主人公はグウィネスパルトロウに出会い、
恋をする。(実際は100キロ以上のブスで、心が美しい)
この内外のギャップが抱腹絶倒コメディになるコンセプトの映画だ。
この映画はこの構造がとても良いのだが、
帰結がいまいちだ。
外的問題の解決、「催眠術を解くこと」が、
内的問題の解決、「女は顔じゃなくて心だ」を示していないからだ。
外的問題の解決によって、女の正体を見たことがボトムポイントになっていて、
そこから思い直して彼女を迎えにいくのがクライマックスになる。
内的問題の解決が、いまいちカタルシスがないのである。
外的問題の解決、すなわち「催眠術を解くこと」が解決になるように、
たとえばもう一度催眠術をかけてもらい、
彼女の内面の美しさを理解した上で、
意図的に「催眠術を解いてくれ」というクライマックスに持っていけば、
カタルシスがあったに違いない。
かように、
内的問題の解決を外的問題の解決で示すことは、
プロでも難しい。
これありきでスタートしても、
結局外的問題ベースの作劇に、途中で移行することになるだろう。
窓辺系やメアリースー的物語とは、
要するに内的問題を構って欲しいだけの、
面白い外的問題なき話になってしまうことなのである。
またてんぐ探偵を例に出すけれど、
内的問題と解決、「心の闇」に関する話が出来たとしても、
それが会社の出世話なのか、
ボクサーの話なのか、
お笑い芸人崩れの話になるのかで、
外的問題とその解決は全部違う話になるだろう。
それらを毎度毎度セットで作り出したという、
割と変わった物語なのだが、誰もあまり気づいていない。
「ブラックジャック」も、
外的問題と解決は病気と手術だが、
内的問題の解決にそれがなるように、
お話が作られているから、面白いのである。
(多分だけど、内的問題ベースと外的問題ベースの話が、
入り交じっていると予想する)
それを週刊ペースとは、人外だろ手塚治虫。
心の中を言葉だけで綴るのは難しい。
さっさと外的問題に置き換えるのが吉である。
さて、○○ベースの作劇シリーズ、
次回はコンセプトベースの作劇。
2016年03月20日
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