2016年03月21日

コンセプトベースの作劇

コンセプトというのは、
このブログでは、二幕のお楽しみポイントを主に指す言葉として使っている。
つまり、こんな趣向の楽しみが待っております、
という面白ポイントを先に思いついた場合だ。


自作を例にとって解説すると、
てんぐ探偵妖怪「横文字」のコンセプト、
「浅草寺→鎌倉大仏→京都人形浄瑠璃」という旅を最初に思いついたと仮定する。
つまりこの話のコンセプトは、
「日本文化の粋をいっぺんに味わうため、
一本高下駄で飛びまくる」である。

実際のところ、
「一本高下駄で飛びまくる」自体がとても面白い趣向とは思えない。
それは平凡なワープ的な旅行だからだ。
コンセプト、趣向は、時代の影響をまともに受ける。
目新しさが全てかも知れない。
たとえば「ジュラシックパーク」は、
「CGという新技術で、生きているかのような恐竜島を地獄巡り」がコンセプトであり、
それが最新技術で驚きがあったからこそ意味があった。
今ではそれは陳腐化し、
「CGで作られた全く新しい世界を冒険しよう!」
と言われても、はあそうですか、のレベルでしかない。

つまりコンセプトは、宴会芸である。
こんな新しい趣向で、という目新しさが必要だ。
これは企画力が必要である。

「愛しのローズマリー」を例に出すならば、
「絶世の美女とデートしてると本人だけが思い込んでいて、
実際は100キロ以上のデブスとデートしている」
というギャップのコントがコンセプトだ。
これが面白いがゆえに、この映画は成立しているのである。


さて、コンセプトが思いついたら、
そのコンセプトが実現する「目的とそのための行動」を逆算しなければならない。
そしてその行動の末の結末もだ。
コンフリクトがコンセプトに必要ならば、
それも織り込まなければならない。
そして外的問題だけでなく、内的問題とその解決もである。


実際のところ、コンセプトが並だとしても、
外的問題や内的問題とそれらの解決がしっかりしていれば、
面白い物語になる。
妖怪「横文字」は、そういう話だった。
一方、いくらコンセプトが面白くても、
内的問題や外的問題の解決がいまいちなら、
なんか惜しい読後感になってしまう。
「愛しのローズマリー」はそういう映画である。

つまりコンセプトは、斬新さで人を引き付けるのだが、
それは中盤の要素に過ぎず、
最終的にその話がどういう意味だったかには、関係がない。
にも関わらず、斬新さで人を引き付けるため、
予告編に使いやすいのである。

予告詐欺はこうやって作られることについては、
過去記事で議論したので省略するとしよう。


コンセプトを最初に作ってしまった場合、
ガワだけ面白そうで中身のないものになりがちだ。

たとえばペプシ桃太郎は、
「桃太郎という古典的お伽噺を、
滅茶苦茶かっこよくやる」というコンセプトで、
それは人目を引いたが、
蓋を開けてみれば「自分より強いやつを倒せ」というテーマを掲げているわりには、
全くそこに落ちない、面白くもない、
子供が作ったみたいなストーリーであった。
(同じ構造に、「フィフスエレメント」がある。
リュックベッソンの中学生ノートの、滅茶苦茶カッコイイ実写化だ。
フランスSFという斬新ビジュアルと、
音楽のみが映画史に残る、珍品である)


それさえ注意すれば、
面白いコンセプトは、映画にあればあるほど良いものである。
よくある問題と解決の話だとしても、
コンセプトが面白ければ、
それは化けるものだ。
コンセプトさえ面白ければ、平均的な話からは突き抜けられるだろう。
(たとえば先に挙げた「ストレイトストーリー」は、
「トラクターのロードムービー」というコンセプトで、
平凡な物語を面白く見せた。
たとえばてんぐ探偵妖怪「リセット」では、
「転校初日を何度もループする」というコンセプトありきで話をつくった)


次回は、キャラクターベースの作劇。
posted by おおおかとしひこ at 00:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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