日本語を操る者として、
俳句のひとつやふたつ、詠めるべきだろう。
まずは五七五にことばを納めることに慣れよう。
季語も慣れの問題。
知らない言葉より、知ってる言葉でやればいい。
慣れてきたら、ようやく表現と内容という二者の関係に気づける。
とりあえず今日詠んでみた句。
電柱の脇からも咲く春すみれ
これは今日見た光景である。
電柱の下というか脇というか、すみれが咲いていた。
ここ最近暖かかったし、もう春ですなあ。
これを例に、表現と内容について考えてみよう。
電柱の脇、というのが言葉として分かりにくい。
何となくイメージは出来るけど。
そこで、分かりやすく嘘をついてみる。
石垣の間から咲く春すみれ
こっちのほうが絵的にイメージしやすい。
塀と塀の間から咲く春すみれ
でもいいよね。雑草感がいい感じだ。
さて、
電柱の影からフライング春すみれ
みたいに、咲く以外の動詞を持ってくる手もある。
こっちのほうが僕が思ったことに、近いかもしれない。
ちょっとこねくりまわしているうちに、
「電柱の影」という表現も思いついた。
日陰者の雑草がたくましく咲く感じがより味わえる。
先んじて電柱の影に春すみれ
フライングを嫌えば、こういう渋い表現も可能で、
僕のもう春なのかねえ、という実感にもあっている。
さて、こういう試行錯誤を、あなたは言葉を使うときにしているか、
というのが本題だ。
言葉には、シニフィアンとシニフィエがある。
シニフィアンは言葉そのもの、
シニフィエはその言葉がさすもの、である。
難しい言葉を使わずに言えば、
表現と内容だ。
実際のところ、
表現をこねくりまわすと、内容が微妙に変わって行く。
さて、ここからが大事なことなのだが、
内容は、あなたの意識と100%シンクロしている必要はない。
表現者の意識や無意識を、
表現された内容は、逸脱してよいのである。
僕は「今年の春ははやいなあ」と思っていたのが真意で、
その内容を、電柱の影に咲くすみれを借りて表現したのだが、
別に内容と僕の意識は、ずれていても良いのである。
だから、
今年の春は電柱の影に咲くすみれ
のように、日陰者を表現する自虐的表現だってあり得る。
で、色々こねくりまわして、
僕の意識以上に勢いのある、
電柱の影からフライング春すみれ
をイチオシにすることにする。
作者の意図を探り、それを明らかにするのは、
読解の初歩であり、精々中学生レベルまでである。
「作者の意図と、表現の内容は異なる」ことを前提に、
あなたは表現者であるべきだ。
(現実では、誤解すら起こる)
つまり、
「表現をいじって、自分の意図以上の内容をつくること」が、
創作というものなのだ。
時々、「僕の表現したかったものはこれじゃない」
なんて言う初心者がいるが、
それはこういうことを理解していないバカなのだ。
創作は手紙ではない。それ以上の何かだ。
逆に「自分の意図を正確に伝える」のは、手紙やレポートの役目であり、
創作ではないのである。
また風魔10話「告白」を例に出すけど、
自分の意図を言う意味の「告白」ですら、
その意図以上の内容になっているからこそ、
名作なのだね。
こんな本質的なことを、
俳句という手軽な創作で学べる。
日本語は素晴らしいものだ。
2016年03月21日
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